“親チャンス”問題に怒る社会の素顔、力持てば誰でも乱用の危険性
大学卒業後、就職に成功するまで約2年の空白があった。数えきれない不合格通知、そのうち1カ所は地元の報道機関だったが、最終面接で苦杯をなめた。
面接の時、父の職業を聞かれたという話をすると、平凡な公務員の父は「力がなくて申し訳ない」と言った。“父母(親)チャンス”(親の七光り)がなくて落ちたと思いはしなかったが、肩を落とした両親の姿を見るのはとにかく憂鬱(ゆううつ)だった。
子供のためにあらゆる事をしたいのが親心だという。親として自然な感情だろうが、時にはそれが過剰になる。いわゆる社会的に成功した親が人脈を動員して子供の名門大への入学を助け、地位を利用して軍生活の便宜を提供しようとすること等は、当然批判されることだが、これらの親の行為は何より子供に対する愛から始まったものだろう。
最近話題になっているバレーボール界の学校暴力問題も親チャンスの問題から自由ではないとの声が出ている。人脈を重視する韓国スポーツ界で、国家代表出身の母がこのスポーツスター姉妹の頼もしい後ろ盾となってきたので、これまで彼女たちの暴力をはじめとする帝王的な態度が容認されてきたという分析だ。
一方では、このような親チャンス問題に対して、有名人の事例に公憤するだけでいいのかとも思える。誰もかれもが、成績で1番になり、名門大に行き、専門職を得て金持ちになることを最高の価値とする社会で、人格教育は後回しにされるしかないからだ。
“まず人間になれ”という教えより“何としても1番になって成功せよ”という価値観を注入された人々は、弱者をいじめることにも親チャンスのような便法を使うことにも無感覚になっていく。このような観念が蔓延(まんえん)した社会では、誰でも力を持てば、これを誤用乱用する危険性が高まる。
富も権力も受け継がれるため“階層間のはしご”が壊れたといわれる時代だ。親チャンスを与えられずうなだれることも、どんな親チャンスも期待できない現実を恨むことも、実は親チャンスの存在を何よりも正当化することではなかったか。本当にこれが誤りだと思うなら、親チャンスを使ったり受けたりする行為に羞恥心を感じるべきなのだ。
結局、親チャンスを与える力さえあれば喜んで与えるよという、“違法”でない限り何が大したことなのかという考えを心の奥で共有する人々が依然多い社会なので、親チャンスは根絶されていないという結論に至る。不透明な手続き、不正に対する処罰が弱いことなどは副次的な問題だ。
私たちの怒りもまた、こうした逆説を含んでいるのかもしれない。「親チャンスで成功」という高速列車に乗った人々にあれほど腹が立ったのは、単に公正さを破壊したからというだけではない気がする。
(チョン・ジヘ社会2部記者、3月2日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。