米中新冷戦、韓国外交の生きる道


韓国紙セゲイルボ

名分と実益の均衡が課題に

 米国と中国、G2(主要2カ国)間の覇権戦いが激しい。新型コロナウイルスの起源論争で触発された米中対立は政治・経済・外交・軍事など全方向へ拡散している。果たしてコロナ発新冷戦で米国はまた新しい国際秩序づくりに成功するだろうか。でなければ中国が超強大国として浮上するだろうか。

中国外務省の華春瑩報道局長=2019年10月、北京(時事)

中国外務省の華春瑩報道局長=2019年10月、北京(時事)

 トランプ米大統領は先月末、「G7(主要7カ国)首脳会議は時代遅れ」として、今年の秋あるいは年末に開く会議に韓国、オーストラリア、インドとともにロシアを招待した。ロシアが同会議に参加し“反中隊列”に合流すれば、後日、新冷戦の終焉(しゅうえん)を告げる世紀の事件として記録されるかもしれない。米国がロシアを味方に引き込めば、中国は孤立無援の境遇に陥ることは自明だ。中国はロシア、インドなど隣接諸国との紛争に苦しめられ、結局、米国のインド・太平洋戦略で無力化される。

 もちろんこのシナリオが直ちに現実化される可能性は希薄だ。G7会員国がロシアと共通利害を見いだすのは容易でないためだ。英国とカナダはロシアの参加に否定的だし、ロシア自身も気に入らないという反応だ。

 トランプ大統領は防疫失敗、経済危機など悪材料が相次ぎ、リーダーシップ危機を迎えている。中国の崛起も恐ろしい。国際社会の引き止めにもかかわらず、「もはや米国恐れるに足らず」と、香港の国家安全法制定を推進するほどだ。武力示威や毒舌、報復もはばからない。ここ三十余年間に構築してきたグローバル分業構造が堅固であり、どの国もここから離脱するのは容易でないのだ。

 G2の戦いが長期戦の様相を帯びつつあり、国際秩序の不確実性は大きくなりそうだ。するとG2の間に挟まれた韓国は薄氷の上を歩くほかはない。中途半端な“戦略的曖昧性”に頼っては、クジラの戦いに巻き込まれ背中が裂けるエビの境遇に転落してしまう。2016年THAADミサイル(高高度防衛ミサイル)配備の時、中国が経済報復に出て過酷な代価を払ったことを忘れたのか。

 外国に振り回されないようにするためには、平和、民主主義といった価値観、原則をたてて、懸案ごとに名分と実益の均衡を探さなければならない。韓米同盟が韓国の外交・安保の根幹であることを誰も否定できない。文在寅大統領がトランプ大統領のG7招待に「喜んで応じる」としたことは当然のことだ。

 とはいっても中国のタブーを破る愚を犯してはならない。習近平主席の年内訪韓を成功させ、共通利害を探して友好関係も固めなければならない。外交力の源泉である経済力と軍事力の強化も疎(おろそ)かにしてはならない。中国を除いた経済繁栄ネットワーク(EPN)と軍事連合のような米国の構想には慎重に対応しなければならない。下手な対応が経済を駄目にし、安保危機を招くようになるためだ。

 韓国の国民と国家存立の危機は米国の利害にも合致しないという点を米当局に説得できなければならない。韓国には精巧な外交が必要であり、対外交渉に最高の専門家を起用しなければならないのはそのためだ。

(朱春烈論説委員、6月4日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。

ポイント解説

クジラの戦いエビの背裂ける

 繰り返しになるが、朝鮮半島の地政学的宿命から、ここに立つ政権は常に周辺の強大国に振り回されてきた。いままたG2時代を迎えて米国と中国のはざまで、双方から「旗幟鮮明」にすることを求められている。「どっちに付くのか」と。
 記事では「懸案ごとに名分と実益の均衡を探さなければならない」としているが、これができるのは外交・軍事・経済である程度の独立性を保持していなければ不可能だ。安保を米国に頼り、経済は中国頼みの中で、双方にいい顔をするのは、結局どちらからも評価されない。

 前段に「平和、民主主義といった価値観、原則をたてて」としているが、それなら一党独裁、言論の自由も人権尊重もない中国に付くという結論に至るはずはない。なのに“中国のタブー”を破らないよう気を遣う態度は、相変わらずお互いが昔の華夷秩序の中に留まっていると錯覚させる。それとも、文在寅政権は「平和、民主主義」ではなく、共産主義を目指しているとでもいうのだろうか。

 米国から韓国の「自尊心」をくすぐる招待状が届き、文大統領は飛びついた。それが「正会員」になるわけではなく、あくまでも「テンポラリー・ゲスト」にすぎないことが分かったものの、中国に気兼ねして、この席に座る“栄誉”を断るにはあまりにも惜しすぎる。

 この落とし前を中国の前でどうつけるか。言い訳、言いくるめ、すり替え、詭弁(きべん)は歴史を通じて鍛えてきた。いや、鍛えざるを得なかった事情に、多少は同情するが。

(岩崎 哲)