台湾アイデンティティーに陰り

浅野 和生平成国際大学教授 浅野 和生

背景に習近平政権の圧力
当局のネット管理に不安抱く

 旧正月の行事が続く2月24日、台北郊外にある道教の古刹(こさつ)、指南宮に初詣(はつもうで)をした馬英九元総統(大統領)に新聞記者が「あなたは国民党の主席に復帰しないのですか?」と問い掛けた。これに対して馬英九は即座に、「それはない」と答えた。そこで記者はさらに踏み込んで「2020年の総統選挙には出ますか?」と問うと馬英九から答えがなかった、と25日付の『自由時報』が伝えている。総統選挙立候補に言葉を濁した馬英九に、その場の市民から「当選!」という声も掛かったという。

 台湾では、総統をいったん辞任した後、間を置いての再挑戦を憲法は禁じていない。しかし、馬英九の国民党党首辞任とその後の民進党への政権交代は、台湾の主流の民意による馬英九国民党に対する明確な拒絶の結果であった。

 すなわち、14年の「ひまわり学生運動」を契機として、馬英九政権が進めた中台接近路線への支持は急落し、台湾の自立を求め、台湾は台湾であって中国ではないと主張する、いわゆる「台湾アイデンティティー」が高揚した。この結果、同年11月末の統一地方選挙で反国民党勢力が大勝し、敗戦の責任を取って馬英九は国民党党首の座を降りた。さらに、16年1月の総統選挙で、国民党公認候補の朱立倫は、民進党の蔡英文候補に200万票の大差をつけられて敗北した。

 こうした経緯からすれば馬英九はすでに過去の人だが、旧正月のご祝儀か、この次の「総統候補」として新聞紙面を飾ったのである。しかし、馬英九に再選の目はない。

 一方、台湾アイデンティティーの高揚に陰りが見える。国立政治大学選挙研究センターが毎年続けている世論調査の17年12月実施分の結果が公表された。「あなたは台湾人ですか、それとも中国人ですか」と問う調査だが、台湾アイデンティティーのピークは、「ひまわり学生運動」の14年であり、「私は台湾人」と答えた人は60・6%いたが、昨年末には55・3%にまで下がった。3年で5%余りの下降であり、人口2300万人ほどの台湾では120万人ほどの減少を意味する。

 その背景の一つに、習近平政権からの圧力があるのではないか。

 経済産業省の資料によると15年のキャッシュレス決済比率は、日本が18%なのに中国は55%に達した。モバイル決済の総額は15年には1年で5倍も増えたから、今ではキャッシュレス決済は60%を超えているだろう。つまり、中国では買い物に現金を使わないのが普通で、インターネットで購入したり、店や自動販売機ではスマホをかざしたりするだけで支払いを済ませている。

 一方、周知の通り、今日の中国はインターネット国家管理社会である。ネットショッピングやスマホ支払いは、中国政府当局のネット管理機関によって把握される可能性がある。

 さらに、街頭や建物の至る所に監視カメラがある。またスマホは、常時、位置情報を発信する。つまり、スマホとカメラの情報を駆使すれば、誰がいつどこにいたか特定できる。さらに、その人物がいつ何を購入したか、誰とどんな情報交換をしたかも追跡できる可能性がある。

 無論、当局は常時、全ての市民の行動チェックをすることはないが、ひとたび当局のターゲットにされれば、その人の行動は詳細に把握されるだろう。中国に暮らし、あるいは中国に出入りする台湾人は、このことを敏感に感じている。

 そして馬英九政権と中台交流を促進していた習近平政権は、その後の民進党蔡英文政権に対して政治対話を遮断するとともに、台湾を吸収して中国に含めることを「祖国完全統一」として、それこそが全中華民族の共同願望であり、中華民族の根本利益であると宣言した。その上で、一切の「祖国分裂活動」に断固として反対し、誰であれ、いかなる組織であれ、どの政党であれ、いつどんな形でも、台湾を中国から分離させることは絶対に許さないと公言している。

 中国で生活し、あるいは中国に出入りする台湾人は、これほどまでに強い習近平政権の姿勢を知って、自らの身を守り、あるいは親族の経済活動を維持するために、「台湾アイデンティティー」の表明を躊躇(ちゅうちょ)しても不思議ではない。

 だから、14年に「私は台湾人です」と答えていた台湾人のうち120万人が、「私は台湾人ですが、中国人でもあります」に回答を変えたのではないか。

 台湾の人びとは、習近平政権下で日に日に高まる圧力に不安を感じているのだ。

 自由と民主を愛し、自分たちの祖国を愛することにおいて、台湾人は日本人と同じである。地政学的にも、日本と台湾は運命共同体である。だから日本は、アメリカと手を携えて中国の圧力に抗し、台湾の人びとの不安の軽減に努めなければならない。

 先の第19回中国共産党大会において、習近平は、マルクス・レーニン主義、弁証法的唯物論、史的唯物論の堅持を掲げるとともに、個人主義と自由主義を防止し、反対すると明言している。その中国に台湾の自由と民主を蹂躙(じゅうりん)させてはならない。

 習近平は、「祖国完全統一」が中国の夢だというが、台湾にとっては悪夢である。

(あさの・かずお)