チベットで続く宗教弾圧

ペマ・ギャルポ拓殖大学国際日本文化研究所教授 ペマ・ギャルポ

寺院火災の真相隠す中国
僧院宿舎破壊し僧侶削減も

 今回は中国共産党支配下のチベットと信仰に関する出来事についてご報告したいと思う。第1に取り上げたいのは2月17日夕方6時40分に発生したラサの聖なるジョカン寺での大火事のことである。動画投稿サイト「ユーチューブ」に上げられた録画など見る限り、大変に大きな火災で、燃え上がる真っ赤な炎は遠くからも肉眼で見えた。

 だが2、3時間以内に火の画像は見えなくなり、当局は「火は3時間で消した。火災は大したダメージがなく、また放火の疑いもない」と正式にコメントを出した。ただしラサの住民には、3日間ジョカン寺を閉鎖すると告げられ、真相を隠しているようにも見える。

 もともと、このジョカン寺は647年にチベットのソンツェン・ガンポ大王が建立した神聖な寺院であり、中には唐のウェンチェン姫(チベット名ギャサ)が641年にチベットに嫁いで来た時に持参した釈迦胸像がご本尊として祭られている。ソンツェン・ガンポ大王は近隣諸国との平和と活発な文化・経済交流を促進・維持するため、ネパールからブリクティ姫(チベット名ベルサ) をも妃に迎えたことは有名な話である。

 両姫はそれぞれ貴重な仏像を奉納し、大王はそれぞれを安置するためジョカン寺とラモチェ寺を建立した。この2人の姫は歴史上有名であるが、当時中央アジアの軍事大国の主であった大王は、チベットの女王の他ペルシャの姫を含め5人ぐらいの妃を迎えたという説もある。それが当時のチベットの国力を表していたように見える。

 ジョカン寺は時代とともに拡大し、2・5ヘクタールの広さと屋上の神殿も含め4階建ての巨大な寺院に発達し、チベット仏教の中心的な聖地になった。チベット各地から巡礼者が何日も、また何カ月もかけて、毛虫のように五体投地をしつつ、ラサのジョオー(釈迦像)を拝むためやって来る。それはイスラム教徒にとってのメッカへの巡礼と似たようなものである。

 私は1958年に6歳の少年巡礼者として参拝し、80年にダライ・ラマ法王視察団の一員としてジョカン寺の屋上から民衆にあいさつした。ジョカン寺の屋上から拝むポタラ宮殿の壮大で神々しい姿は今でも脳裏に残っている。

 66年から72年までに寺院はほぼ破壊され、参拝は禁じられていた。チベットの99%の寺院と仏像は壊されたが、文化大革命後は中国政府によって修復された。仏像がオリジナルのものであるかは確実ではないが、チベット人の信仰に揺らぎはなく、神聖な聖地の神聖なる仏像たちは信仰の対象であり、国の宝である。国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2000年にポタラ宮殿の延長線でジョカン寺も世界遺産に認定した。

 中国政府はなぜ報道を規制しているのか、何を隠そうとしているのか、とても気になる。ジョカン寺の周りにはバルコルと呼ばれる繁華街がある。また822年にティ・ラルパチェン大王と唐の皇帝との間で「相互の国境の尊重と永久平和」を誓った文言を刻んだ石塔が敷地内に残っていたはずだ。もちろん本来であればジョカン寺には国宝級の仏像、仏画などがあったはずだが、今はフェイクの物に変わっている可能性が高い。

 もう一つ、2016年以来、中国政府は徹底して東チベットのラルン・ガル・セルタル寺院にさまざまな形で嫌がらせをしている。ラルン・ガル寺は1980年初期にケンポ・ジグメ・プンツォク大僧正が設立した仏教学堂であり、僧院定住僧は公式に1万人を超えており、実際はその2倍いるだろうと推測される。だが、中国政府はブルドーザーで僧院の宿舎を壊し、僧侶の人数を5000人に減らすよう命じた。そして1月、200人の共産党員を送り込み、寺院の運営・管理も共産党員が行うと宣言し、常識的に考えられない宗教弾圧を行っている。

 またバチカンを抱き込んで中国カトリックを合法的に牛耳ろうとしていることも非常に気になる。中国政府は、信仰の自由を憲法上認めているが、宗教の自由、布教の自由などは認めていない。信仰は脳や心臓を切り開いても出ては来ない。だから取り締まりようがない。

 今までローマ法王庁に忠義を尽くし、共産党の飼い犬になることを拒んできた人たちは、今のローマ法王に裏切られたような気分であろう。彼らはさまざまな抑圧に耐え、地下に潜り、60年以上信仰を捨てずに戦ってきている。

 これでバチカンの任命大司教も中国政府の政治協商会議の副主席ぐらいに就くだろう。中国で高い地位にある聖職者は「隠れ共産党員」に等しい。なぜならば中国政府にとって宗教は外交目的を達成するための道具にすぎないからだ。

 正義と真実のためにローマ法王庁に警告を促している香港前大司教、ゼン枢機卿の勇気をたたえ、支持を表明したい。彼を邪魔者扱いしているバチカンが、中国宗教に対する本性に目覚めるよう心から祈念している。