劉暁波氏死去、“獄死”を政治改革につなげよ


 中国共産党の一党独裁政権に反旗を翻し、投獄されたままノーベル平和賞を受けた人権活動家、劉暁波氏(61)が死去した。死去したのは刑務所外の病院だったとはいえ、事実上の獄死だ。中国政府は、還暦を迎えたばかりの劉氏の早すぎる死に重い責任を負う。

非暴力で自由求める

 1989年の天安門での民主化デモのリーダーだった劉氏は、天安門事件後も安全な国外への退路を断ち、民主・人権が必要とされた中国に留まった。その非暴力に徹する姿は「人としての尊厳」に満ちた求道者として求心力を持った。獄中受賞となったノーベル平和賞の授賞式で代読された「私の最後の陳述」では「私には敵はいない。憎しみもない」と述べた。

 文化大革命で知識人を槍玉(やりだま)に挙げた毛沢東氏や「虎もハエも叩(たた)く」として反腐敗運動を展開した習近平氏のように、これまでの中国の政治は常に敵をつくり、憎しみの炎の中で政権の浮揚力を高めてきた。こうした中、劉氏は異色の逸材だった。

 劉氏が求めたのは、中国の憲法で保障された「言論や集会、結社の自由」だった。中国では、この憲法が空証文であることは誰もが知っている。だが、こうした自由は基本的人権に属するものだ。

 劉氏には、経済改革の次に政治改革をしなければ中国は立ち行かなくなるとの確信があった。だから敢(あ)えて、中国共産党政権の偽善に批判のつぶてを投げ続けたのだ。ただ独裁政権は拒否するが、共産党そのものを否定するわけではない。

 しかし、共産党政権が劉氏の要求に応じることはなかった。劉氏に国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決を下しただけでなく、病状が深刻になるまで獄中で放置した。病院に移送された時、劉氏はすでに末期がんに侵されていた。

 中国メディアは劉氏の死去を報じていない。海外メディアの放送は制限され、英BBCやNHK国際放送でこのニュースが流れるたび切断され、画面が暗くなった。当局は劉氏の遺体に関し、家族に「すぐ火葬し、遺灰を海にまく」ことに同意するよう求めたとされる。劉氏の墓ができ、追悼する人々が集まることを警戒したためだ。

 だが劉氏のような人権活動家をどれほど弾圧しても、自由を求める声が絶えることはないだろう。国民の基本的人権を顧みない中国共産党政権の永続はあり得ない。北京市民による周恩来元首相追悼集会が弾圧された76年の第1次天安門事件や、胡耀邦元共産党総書記の追悼デモが発端となった89年の第2次天安門事件など、中国では大人物の死去が大きな社会変革の運動を生みだしてきた経緯がある。

「良心の囚人」の証し

 なお、米国人作家のヘンリー・デイヴィッド・ソローは「正しい人を投獄する政府が存在する時、牢獄は正しい人にふさわしい場所だ」と書いた。

 その意味で、“獄死”は劉氏が「良心の囚人」であったことの証しであったとも言える。少なくとも劉氏は「民主中国」の祭壇の前に、犠牲の燔祭になったことだけは確かだ。劉氏の死を無駄にしてはならない。