国家自ら憲法守らぬ中国
法整備より順法精神を
英雄尊ぶ法、日本にこそ必要
中国政府は3月初旬、全国人民代表大会を開催し、幾つかの新しい法律を制定した。特に注目すべきは国の英雄たちや殉教者の名誉を傷つけてはならないことや、土地の所有権などについて細かい規定が盛り込まれているらしい。
中国がそのような法整備に懸命なのはそれなりに良いことであろう。しかしその前にすることは法の精神を守る真剣さが必要であるように思う。なぜなら今の中国では国家自ら憲法ですら守っていない。例えば憲法では信仰の自由を認めているが、実際はことごとく弾圧していることは世界中が知っていることである。
昨年、現在中国に併合されている四川省のチベットの寺院が強制的に破壊された。しかし今年になって世界の批判が高まっている中、中国政府は建物が壊れやすくなっているので、それを建て直していると公表した。国家が特定の寺院を建て特別に擁護するよりも、信仰の自由を尊重しその運営を信者たちに任せることが本当の信仰を認め、僧侶たちと信者が自ら管理し責任を持つことが現代民主国家における信仰の自由そして世俗国家の正しい姿勢ではなかろうか。
しかし今中国はチベットのみならずウイグルなどにおいても国家権力によって個人の信仰を弾圧している。ウイグルなどでは安全およびテロ対策という名目で、一般市民の車に全地球測位システム(GPS)を付け監視体制を強化している。また中国はインド滞在のダライ・ラマ法王の宗教的行為にまで言及し、インド政府に法王の公的行為を禁止するよう要請している。インドは民主国家であり宗教の自由を尊ぶ文化を持つため、もちろんこのような中国の不当な抗議は無視している。
また昨年のハーグの国際調停裁判所の南シナ海に関する判定に対しても、中国は無視し続けている。また中国の権力者は政治の道具として汚職追放、腐敗摘発に励んでいるが、これもあくまでも政敵だけに集中するため本当の汚職追放には当たらず、むしろ新しい政治闘争の正当性を生み出そうとしているにすぎない。中国において汚職と腐敗が国家的病(やまい)であり文化になっていると言っても過言ではない。中国では今年3月初旬にも警察が尋問中暴力を振るって容疑者を死亡させる事件があったと政府自らが公表しているが、このような警察による拷問は今までも頻繁に起きていることであり、今回の発表と新しい法律の整備はあくまでも国際世論に対するギミックにすぎない。
中国政府および共産党の指導者たちは法律以上の権限を持ち、自ら法を破ることは当たり前の社会である。また国民はホテルの備品は当然のこと公園などのトイレットペーパーまで平気で持ち去る社会を本当に改善しようと思えば国家は国際法を順守し、国民は公の財産を私物化せず法の精神を守ることの方が先決である。それをしない限りいくら法律を作っても、あくまでも権力者の都合の良い道具としての利用価値以外のものではない。中国が単なる国際世論のための法律整備ではなく、真剣に法治国家として今後進んでいくのであれば、政府自ら国内総生産(GDP)などを捏造(ねつぞう)せず憲法に定められているもろもろの自由と権利を尊重し、国民と世界に対し良い模範を示すことが要求される。
中国の英雄および殉教者を尊ぶ法律が意味を持つかは別として、私は日本でもむしろこのような法律が必要ではないかと昨今強く感じている。国会における森友学園の問題に対する審議のやり方や東京都における百条委員会の在り方を見ていると、法治国家というよりもかつての学生運動における仲間のつるし上げや、中国の文革時代を連想させるような極めて下品なやりとりを見て、心を痛めることがある。真実を追究することはもちろん大切であり、それを国会や都議会で進めることも民主国家としては当然のことである。だが真実を追究する過程で、人間の尊厳を無視し、自らの品格を落とす必要はないように思う。
私は東京都議会の議員を見て、実に残念に思うのはかつて彼らが自らの責任と義務であるはずの行政を監視する役割を放棄し、当時の石原知事に対してへつらい、そして自分たちの選挙の時に知事と握手した写真を撮ることに懸命だった人々が、今再び新しい知事に媚(こ)びる態度は実に下品であり日本国民と国家の品位を著しく傷つけているように思う。森友学園の理事長の発言にどれだけの信憑(しんぴょう)性があるかはこれから議会および司法当局によって追及し、明らかにしなければならないことであるが、もしこれが偽りの言動であった場合には日本国および日本政府の名誉を毀損(きそん)することになり重大な罪になる。
日本は今までも法治国家として世界から尊敬され信頼されて来た。この尊敬と信頼を失わせないことは当然最重要であるが、同時に文明国家として日本の尊厳を保つことが日本にとっても世界にとっても大切である。そのような立場から日本こそ国家や指導者に対する無責任な行動に対しては何らかの法的処置も考えるべきではないだろうか。