新ミャンマーの出発に思う
親日国の民主化を祝す
課題に挑むスー・チー顧問
一寸遡ることだが、去年11月8日のミャンマー総選挙で、アウン・サン・スー・チー党首が率いる野党である国民民主連盟(NLD)は歴史的な勝利を得た。すなわち、上下両院(定数合計664)の改選議席491議席中、390議席まで伸ばし、過半数を制したのだ。他方、軍事政権の流れをくむ政権与党である連邦団結発展党(USDP)は獲得数42という惨敗だった。当時のテイン・セイン大統領の任期は本年3月末までで、事実3月30日には、NLD党員のティン・チョー氏を大統領とする新政権が発足した。スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府付大臣に就任した。
ところでスー・チー女史は、選挙前既に「新大統領」には何の権限もなく、「私がすべてを決定する」と強調していた。事実、ミャンマーの憲法59条は、外国人が家族にいる人物の大統領就任を禁ずるほか、最低20年間継続してのミヤンマー居住をも資格とされてる。実際、スー・チー女史には英国籍の息子2人がいるほか、大統領就任の資格としての最低20年間継続してミャンマーにおける「居住」という条件をも満たしていない。
誰も知るところだが、彼女の父親は「建国の父」といわれたアウン・サン将軍だが、その長女として1945年に生まれた。オックスフォード大学で勉学の後、研究員だった英国人マイケル・エアリス氏と結婚、その後海外で平穏な生活を送っていたが、母親病気の情報に接し、88年4月に一時帰国した。当時、祖国では民主化運動が高まっていたが、同年9月に軍事クーデタにより民主化運動の弾圧があった。彼女は国民民主連盟を結成してその書記長に就任したが、自宅に軟禁されるにいたった。
90年の総選挙ではNLDが圧勝したが、軍事政権は政権移譲を拒否した。彼女はその後ノーベル平和賞を受賞した(91年)が、夫と死別(99年)等々苦節が続き、自宅軟禁も2回(2000年)、3回(03年)と続いたが、10年11月遂に軟禁を解かれた。12年4月の補欠選挙でNLDは45席中43議席を得るという快挙があり、自らも下院議員に当選し、その結果国政に進出することになった。次いで、15年11月8日に行われた総選挙ではスー・チー議長が率いるNLDが全議席の6割弱を獲得した。この結果、3月末にティン・チョー氏を大統領とする新政権が発足した。なお、新大統領は長く秘書としてスー・チー女史と海外メディアをつなぐ窓口も担ったこともあった。
この際、スー・チー女史が直面する大きな問題は、大きな権力を維持している軍との関係改善と自身の大統領就任を阻む憲法の改正である。特に議会における軍人議員枠などを定めた現憲法を守りたい国軍との攻防は激しさを増している。
わが国は従前からミャンマー政府と構築してきた信頼関係を基礎とし、両国関係を包括的に強化してきた。11年以降のテイン・セイン政権による改革の進展を受けて、わが国は12年に両国間の経済協力関係を見直し、延滞債務の解消と円借款再開への道筋を付けた。ミャンマーにおける法の支配の強化を図るとともに、経済改革と国民和解を全面的に支援してきたのだ。
発足したNLD新政権の安定的な政権運営は、同国及び地域の安定と発展とに不可欠であり、わが国としては二国間の信頼関係を基礎として、新政権が直面する政治・経済等の課題を含め、政策立案支援、政府開発援助(ODA)や民間投資を通ずる支援を加速する考えである。わが国の対ミャンマー経済協力はもともと1954年に始まったが、88年以降の国軍による政権掌握、スー・チー女史の自宅軟禁等を受けて大規模な支援事業を停止していた。
11年以降の新政権の民主化への取り組みを受け、12年4月に円借款を含む本格的な支援が再開されたのだ。その支援には次の三点が含まれる。国民の生活向上のための支援(少数民族や貧困層の支援、農業開発等)、経済・社会の人材の能力向上や制度の整備のための支援、持続的経済成長のために必要なインフラや制度の整備等の支援である。
援助の面に言及すれば、経済協力開発機構(OECD)開発援助委員会(DAC)における開発援助実績は日、仏、英、米、デンマークという順になっている。すなわち、14年、有償資金協力は983億円、無償協力は182億円、技術協力は70億円強となっている。貿易面を取り上げれば、ミャンマーの輸出品として天然ガス、豆類、衣類、チーク・木材、米、輸入品として機械部品、精油、製造品、化学品などがある。日本はミャンマーから見て5番目の輸出国、4番目の輸入国となる。
実は、ミャンマーは大変な親日国である。大戦中の密接な協力関係は言わずもがな、この関係は現在まで続いている。実は、筆者自身、昭和53~54年に同国に公使・参事官として駐在していた。当時のミャンマーは貧しくて苦労したが、借りた家の家主はセインマウンという元軍人で大いに気が合った。よく記憶しているが、赴任したその晩、何処か夜空に響いていた音楽は何と「見よ東海の空明けて旭日高く輝けば(愛国行進曲)」のメロディーだった!
(おおた・まさとし)











