メコン上流 中国のダム問題
環境と下流国を顧みず
消える雄大な河畔交流文化
ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、淀(よどみ)に浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて久しくとどまることなし――とは、たしか古典の方丈記の書き出しの名文だったと思うが、もう続きは忘れて思い出せない。ところが、なぜか最近になってこの文言を思い出すことが多くなった。それは日本中のあちこちの川を見ても、かつてのような心を洗ってくれるような気分が、さっぱりなくなってしまったからだ。
私が幼少期に育った東京西郊外の多摩川の上・中流部では水は澄み切り、大変綺麗だった。今ではとても信じられないことだが、この中流域には川岸に漁師がいて、川魚を獲って生計を立てていたのだ。ハヤもアユもウナギも、溢れるようにいた。
この多摩川の最初の破壊が始まったのは、私の知る限り、戦争に負けて立川の旧飛行場の改築工事が始まり、アメリカ駐留軍が多摩川の砂利を徹底的に浚ってしまったからだった。そのときからずっと後のことだが、例の砂川事件というのもこんな延長のことである。ここで多摩川の綺麗な川砂利はすっかり底をつき、川底は泥質層になってしまったのだ。かつて徳川幕府が江戸城を建てるとき、ここの砂利が使われたことはよく知られている。ここからまったく新しい多摩川の歴史になるのだが、もう触れるようなことはなに一つない。こんなこと別に触れることもないと思う人もいるだろうが、東京に住む人の多くはいやでもこの水を飲まねばならない。
しかし、ここで触れようと思っているのは実は別にある。現代の河川の運命を劇的に人工的に変えてしまおうとしている一つの例として、メコン河に触れてみたいと思ったからだ。この河は中国雲南省から、南へと東南アジアを流れる河川で、ごく最近まで雄大なものとして象徴的な存在だった。なにしろ中国、ラオス、タイ、ミャンマー、カンボジア、ベトナムと6カ国を次々と流れ下り、この河畔に居住する人々の生活を助けるばかりでなく、歴史、経済、文化、それに様々な交易を支えたものだからである。
このことは21世紀に入った現在でも、一向に変わることはない。この河がなかったらタイ、ミャンマー、ラオスの仏教や、カンボジアのクメール文化もとても維持することがむずかしかったかもしれない。それにこの河川が重要な交通手段であり、河のシルクロードを担っていたのだった。
ところがこの河の運命が、この僅か20年足らずの間に激変してしまったのだ。たしか1980年代、雲南省の特別のはからいで、メコン河の上流部からずっと船で旅したことがあった。日本の河川のようにせせらぎ立つこともなく、山々の間を実に悠然と流れていた。
西からずっと延びてきたヒマラヤ山脈は、メコンの西方で南へと大きく湾曲していく。メコン河の最上流部は深い山岳地帯で、大小の河川がメコン本流に流れ込み、大変複雑な様相を呈するが、以前、東京農業大学の探検部OBの人たちが、この水源を確認したのだった。
上流部ではか細い糸のような川の流れが、やがて一つに合流し、もういつか溢れんばかりに増水し、船で下るにしてもその雄大な光景は実に素晴らしい。ただ1980年代はメコン河をずっと下ってラオス領に入ることは許されなかった。だからラオスとタイ領に入国し、そこからメコンを調べるしか手段はなかった。
同じ川の流れであってもラオスに入ると、あたりの雰囲気はがらりと変わる。細かく見れば人種も違い、同じ河畔に居住する住民の生活条件も異なってくれば、カンボジア領内に入ると宗教的雰囲気もすっかり違ってくる。しかもメコン・デルタ地帯のベトナムとなるとまた変わってくる。
これはあくまで自然の条件から眺めたものばかりなのだが、現在、これががらりと変わってしまったのだった。雲南省で始まった一大変革である。ダム建設工事である。初めのうちはせいぜい一つか二つと思っていたのだが、もうラッシュアワー並みである。雲南だけでも計画中を加えると19基という。かつて船で下ったゆるやかな川は、いまはまさにダム通りで、通り抜けはできない。とても正気の沙汰とは思えない。かつてチベットでダム建設の現場を見たが、それはヒマラヤの山岳破壊工作と同じだった。ところがメコンのダム計画は、ラオス、カンボジアの間でも7基作るという。
かつてわが国でもダム建設で問題が起こり、熊本県の荒瀬ダムと川辺川(ダム)、群馬県の利根川の八ッ場ダムが有名だ。しかし、メコンはスケールが違う。第一に中国の目的と行動は想像を絶する。いまの南シナ海の埋め立てと東シナ海のガス田開発を見れば、説明は不要であろう。
中国側は自分たちの主義と主張以外は、一切歯牙にもかけない。メコンの苦悩は間もなく断末魔の叫びとなって聞こえてくるだろうが、それをどう処理するのだろう。
(かねこ・たみお)