中印回廊 ミッシングリンク接続へ
新グレートゲーム 第2部
幻想だった中国の平和的台頭(6)
中国雲南省の瑞麗市と国境を接するムセからミッチーナに向かった。直線距離にして200㌔㍍でしかないが、かかった時間は40時間。ムセからミッチーナまでは反政府武装少数民族の支配地域を通過しなくてはならず道路は閉鎖されている。従って一旦、マンダレーまでバスで帰り、改めて電車で北上する迂回路を通らなくてはならない。
無論、空路で行けば簡単だが、地を這う取材をモットーにしている記者にすれば、空路は論外だ。人々の雑踏にもまれてこそ、分かるものが結構あるし、人情に触れるのは旅の最高のスパイスでもある。
ラッショーでは英語教師のキョウゾーウイン氏(41)が「ムセからミッチーナへは最短バイパスがある。これだと4時間だ」と耳打ちしてくれた。そのコースはムセから一旦、中国に出て高速道路で北上して改めてミャンマーへ越境するコースだ。少数民族の反政府武装勢力は中国ルートのバイパスを使って飛び地の支配地域に移動したり、他民族との折衝に動いている。外国人は陸路での国境越えは許可されておらず、さすがにこの手は使えない。それにしても中国の高速道路を4WD(四輪駆動)で飛ばすミャンマーの反政府武装勢力は、蛭(ひる)と闘いながら密林を鉈(なた)で切り開いて進むイメージとは懸け離れている。
なおミャンマー北部の最大都市ミッチーナは、第2援蒋ルートの拠点となった都市だ。
第2次大戦中、旧日本軍がマンダレーを落としたことで、国民党政府への補給路は北部のミッチーナ経由に変わった。
だが、1960年までにミャンマーだけでなく中印も内向きになった。いつの間にかスティルウエル公路もジャングルに戻った。
ミッチーナで金属製品を商っているシーク教徒の経営者クル・ディープ・シン氏(53)は「タナイまでは道路が整備されているが、その西のスティルウエル公路は今は使えない」という。
ミッチーナから中国雲南省と接するライザーまで定期バスが運行しているのに比べ、かつてつながっていたインド・リドへの道は閉ざされたままだ。「ミッチーナの人口55万人のうち、中国系は10万人と圧倒的な数の優勢を誇るが、インド系は私の家族を含めわずか300人だ」(シン氏)というほどインドと中国の影響力の違いが鮮明だ。
中国は、長く続いた欧米のミャンマー軍事政権への経済制裁の間隙を縫う格好でインフラ開発に投資し、道路やダムを建設した。さらに中国はミャンマーのチークの森を伐採し、翡翠(ひすい)を採掘し、自国製品を売った。だが、それでミャンマー人の職が増えたわけでなく、ますます不平等な格差社会に弾みがついていった経緯がある。
それでもやがてインド政府は東方政策を取るようになり、海路やミャンマー経由で東南アジアとの関係を強化したり、極東との歴史的な関係を再生したりするようになった。
シットウエー回廊プロジェクトも、ミャンマー西部のシットウエーにインドが投資して新しい道路と水路を建設し、これまで孤立していたインド北東部との回廊を構築しようというものだ。スティルウエル公路を再び開通させようとの案も浮上してきた。実現すればインド極東部がミャンマー経由で雲南省とつながる。
(池永達夫、写真も)