ディエンビエンフー ニクソンの鋭い状況判断
新グレートゲーム 第2部
幻想だった中国の平和的台頭(7)
ディエンビエンフーはハノイから車で半日要した。第2次大戦後の1954年、フランス軍をベトミン(ベトナム独立同盟会)軍が駆逐していった決定的な戦いとなった場所だ。今年はその60周年を迎える節目の年だ。
町中にある「勝利の記念像の丘」に登ると、周囲をぐるりと山に囲まれた盆地であることが一目瞭然だ。
口火を切ったのは紅河デルタ地帯を確保するのみだったフランス軍の方だった。補給能力が貧弱とみられたベトミン軍を北西部山岳地帯に誘い出し撃滅する作戦に出たのだ。
同作戦の要となったのが旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な補給が可能なディエンビエンフーだった。
だが、ソ連や中国はベトミン軍の後ろ盾となり、大量の武器、弾薬を補給。ディエンビエンフーを囲んだ峰々にベトミン軍の陣地が構築され、フランス軍は息の根を止められることになった。
ディエンビエンフーの「A1の丘」は、南国特有の濃い緑で覆われていた。
「A1の丘」は攻めくるベトミン軍に対してフランス軍が最後まで立てこもった丘だ。ベトミン軍がトンネルを掘って爆破させた960㌔爆弾の跡がすり鉢状に広がっている。
両軍が掘り進めた塹壕(ざんごう)が網の目状に巡らされ、当時、3重に囲まれた有刺鉄線も一部再現されている。
塹壕戦では土木工事力がものをいう。そう思ってA1の丘を下ると、そこには自転車にシャベルをくくりつけて、仕事を待っているベトナム人グループがいた。ベトナムではまだ、塹壕戦のような仕事が続いている。
川を越えると鉄のヘルメットをかぶったような要塞がある。ド・カストリーの司令部跡だ。フランス軍総司令部の地下壕(ごう)は、少数民族にチーク材を切り出させた丸太を天井に渡し、その上に鉄板を敷いた上に2㍍50㌢ほどの土のうを積み上げ、さらにかまぼこ型の鉄製天板で覆った。
塹壕の中に入ると、むっとする湿気だ。冬季でこの蒸しようだから暑季にはとんでもない暑さだったと推定される。戦争というのは快適さと懸け離れたところで戦いを余儀なくされる。
このディエンビエンフーで記者は、当時、米副大統領だったニクソンを見直した。
多くのマスコミがフランス植民地主義の復活と批判する中、ニクソンはフランス支援に切り替えた。ニクソンはディエンビエンフーをジープで走り回り、直接、指示を出している。ニクソンは、ベトナムでの戦いを民族独立戦争ではなく国際共産主義との戦いであると見極め、方向転換を図ったのだ。実際、中ソの軍事援助なくしてベトミン軍の勝利はなかった。
だが時代は大きく変わった。反共組織として出発したASEAN(東南アジア諸国連合)に共産国家のベトナムが加盟。さらに米越通商協定を締結し、ベトナムは経済的飛躍のジャンプボードを手にする。米のマクドナルドで売られているフィッシュバーガーは、ほとんどがベトナムのメコン川で養殖されたナマズだ。
南シナ海の西沙諸島を、中国に力で奪い取られたベトナムは、中国を牽制(けんせい)するために日本や米国との関係強化に動いている。
(池永達夫、写真も)






