東西の風に翻弄された人々 独立後95万人がカザフ帰還

中央アジア胎動 中国「新シルクロード」と日本の戦略(3)

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アルマトイの中央バザール。カザフスタンではオラルマンがいない建築現場や市場などないと言っていい

 7000㍍級の峰々が並ぶ天山山脈やパミール高原を戴(いただ)く中央アジアの人々は「風の民」だ。とりわけカザフ人は、東西に向きを変える風にたなびく旗のように、歴史に翻弄された。

 20世紀初頭、革命政権を樹立したソビエト連邦の暴政で、カザフ人は西へ逃げた経緯がある。

 カザフスタン一の商都アルマトイで内装業を営むシャリーハル氏(57)も、中国に逃れたカザフ人の末裔(まつえい)だ。彼の一族は7年前、中国新疆ウイグル自治区のイリからカザフスタンに戻った。彼の父祖たちの苦労は、並大抵のものではなかった。

 ソ連が断行した暴政とは、コルホーズ(集団農場)だった。とりわけヤギや牛を放牧する遊牧民族だったカザフ人にとって、集団定住化は地獄の政策だった。補給や備蓄もないまま開墾に次ぐ開墾を進める、ずさん極まりないものだった。500万人いたとされるカザフ人のうち、200万人以上が集団定住政策の失敗と飢餓で死んだとされる。

 墓場と化したコルホーズを脱出し、中国へ逃れたカザフ人は少なくなかった。西に向かえば、どこまでもソ連だから逃亡の足は自然と東に向かった。多くの逃亡カザフ人たちは1500㌔もの道のりを3カ月以上かけて歩いた。

 シャリーハル氏の祖父も、その中にいた。

 シャリーハル氏は「祖父は国境警備兵の目を逃れるため、日中は雪を掘って、その穴にじっと身を潜めた。そして夜になると歩いた」と言う。

 雪洞ビバークは通常、大雪や嵐など天候不順をやり過ごすために行われるが、カザフ人逃亡者にとって最大の災禍は国境警備兵のライフルだった。そうして辿(たど)り着いた天山山脈の麓の新疆には豊かな草原があった。ヤギや牛の放牧が可能な新天地だった。

 ソ連崩壊の年の1991年、カザフスタン共和国は独立し建国を果たす。そのニュースは、中国など他国に住むカザフ人たちの魂を揺るがした。ディアスポラのユダヤ人のように。

 カザフスタンの主要民族カザフ族は4割を占めていたが、民族名を国名にしている割には比率は低かった。それで新政府は、各国に散らばるカザフ族を呼び寄せ帰還を呼び掛ける。こうした人々をカザフスタンではオラルマンと呼ぶ。オラルマンとはカザフ語で「帰還した人」、他国からカザフに戻り国籍を取得したカザフ族をいう。

 新政府は仕事や住居、土地を優先的にオラルマンに斡旋(あっせん)した。在日カザフスタン大使館のアルマス・ディスコフ参事官によると「これまでに95万人が帰還した」という。

 しかし、最大多数120万人とも言われる中国籍カザフ族の移住は当初、少なかった。カザフスタン帰還へ動こうものなら、周りから反政府主義者と受け止められかねず、下手をすると分離独立論者とみられる空気があった。

 それでも、近年、中国人カザフ族の移住が増加し「13万3000人が帰国を果たした」(同参事官)という。カスピ海の油田が次々発見され、両国関係が蜜月関係へと変化したことが大きい。

 カザフスタンの大規模油田に約50億㌦(約5100億円)の出資を決めるなど、石油が欲しい中国と、親ロシア政策を第一義としてきたカザフながら安全保障面上、地域で台頭してきた中国ともうまくやっていかないといけなくなったカザフスタンの思惑が一致したのだ。

(池永達夫、写真も)