中国で現実となる『一九八四年』

目つぶるリベラル派の欺瞞

特別編集委員 藤橋 進

 中国・内モンゴル自治区で、9月から教育の漢語化が強行され、反対するモンゴル族を当局は次々と逮捕・拘束している。子供を登校させない公務員は解雇、一般市民は融資を受けられなくするなど反対を封じ込め、それでも抵抗する市民の写真を公表して指名手配し、人工知能(AI)の顔認証機能を備えた監視カメラで見張っている。

川端康雄著『ジョージ・オーウェル』(右)とオーウェル著『一九八四年』(高橋和久訳、ハヤカワ文庫)

川端康雄著『ジョージ・オーウェル』(右)とオーウェル著『一九八四年』(高橋和久訳、ハヤカワ文庫

 中国では都市部で「天網」、農村部では「雪亮」という人民監視網ができている。英国の調査会社によると現在2億台以上ある中国の監視カメラは2022年には6億2600万台になるとの予想だ。英国の作家ジョージ・オーウェルが1949年に発表した小説『一九八四年』の世界が現実になろうとしている。

 独裁者「ビッグ・ブラザー」が支配する英国を想定したこの近未来小説では、「テレスクリーン」という監視カメラとテレビを兼ねた装置によって徹底的に監視・統制される社会を描いている。オーウェルの慧眼(けいがん)にいまさらながら驚かされる。

 ところが、この7月に岩波新書として出版された川端康雄著『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』を読んで驚いた。著者はオーウェルが警告・予言した監視社会の到来が現実になりつつあるといいながら、中国のことは全く触れられていない。そればかりか、「はじめに」では、こんなくだりまである。

 「日本では第二次安倍政権下(二〇一一年一二月発足)でなされた一連の法改正(マイナンバー法・改正個人情報保護法・特定秘密保護法、安全保障法制、改正組織的犯罪処罰法など)にともない、個人の自由の制限や監視社会化に対する警鐘を鳴らした人物としてのオーウェルが強調されるようになった」

 著者の川端氏は、日本におけるオーウェル研究の第一人者で、同書は新書ながら、民主社会主義者オーウェルの人と文学を掘り下げた優れた評伝である。しかし、中国で今進行している監視と弾圧について触れず、自由を侵害するより自由な国を守るための法律、特定機密保護法などをあげつらうのは、あまりに客観性と公平性を欠いている。

 『一九八四年』を中国の現状と結び付けることを憚(はばか)る何かがあるのだろうか。リベラルな知識人は、中国を批判してはいけないのか。

 『一九八四年』で描かれた戦慄(せんりつ)の未来社会において、「テレスクリーン」による監視は入り口にすぎない。独裁体制が目指すのは、人々の行動だけでなく、思考や心の中まで支配することだった。その総仕上げが、英語に替わる「ニュースピーク」という言葉の普及である。「ニュースピーク」では、例えば「政治的な自由」を意味する概念も言葉もない。だから国民は自由を求めることもなくなる。

 新疆ウイグル自治区や内モンゴルで強行されている民族言語の抹殺が、民族的アイデンティティーを消滅させる総仕上げとして行われていることは間違いない。中国当局が、『一九八四年』の「テレスクリーン」や「ニュースピーク」を参考にしたのではないかと思うくらい、見事な暗合である。

 中国は監視カメラとAIによる監視システムを他の独裁国に輸出しようとしている。中国で今進行していることに目をつぶることがどういう意味を持つか。オーウェルが米国で語った言葉を川端氏の本から孫引かせてもらう。

 「全体主義というものは、それに対抗して戦わないでおけば、どこでも勝利を収めることがある」