菅実秀と西郷「徳の交わり」、戊辰戦争終戦時の奇跡
庄内藩中老・菅実秀の玄孫 菅 秀二氏に聞く
山形県酒田市にある南洲神社には、西郷隆盛と庄内藩の中老・菅(すげ)実秀(さねひで)が祀(まつ)られている。境内にある二人が向き合う像は「徳の交わり」と呼ばれ、鹿児島市内の西郷屋敷にある像と同じ。戊辰戦争終戦時の奇跡から生まれた二人の交流が、やがて鶴岡市、酒田市を中心とする庄内地方の近代化や『南洲翁遺訓』の刊行を生むことになる。実秀の玄孫(やしゃご)に当たる菅秀二さんに、二人の交わりを伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
肝胆相照らす仲に
庄内地方の近代化へ
戊辰戦争で庄内藩が降伏した時、藩主の酒井忠篤(ただずみ)は若かったですね。

すげ・しゅうじ 昭和21年、山形県鶴岡市生まれ。中央大学経済学部卒業。鶴岡市の荘内銀行に入り、定年退職後、関連会社の役員を務め、70歳から菅家庭園の管理をはじめ荘内南洲会と共に西郷南洲翁の顕彰活動を行っている。
満15歳です。藩校の致道館で行われた降伏式には白装束で臨みました。官軍参謀の黒田清隆は、降伏条件を伝えるまでは上座にいたのですが、その後、下座に降りて忠篤を上座に着かせ、事後のことについて話をしたそうです。黒田が話した寛大な措置は藩士らを驚かせました。
幕末の庄内藩中老・菅実秀が西郷さんに会ったのは?
実秀は西郷さんのことを全く知らなかったのですが、明治2年に黒田清隆から、庄内藩に対する措置は全て西郷さんの指示によることだと聞いたのです。実秀は西郷さんに会わせてくれるよう頼んだのですが、西郷さんは戊辰戦争の後、鹿児島に帰り、温泉で静養しながら薩摩藩の内政改革を手掛けていて、東京には戻って来ないと言われ残念がっています。そこから薩摩の人たちとの交流が始まります。
庄内藩の御用米商人で実秀と親しい越後屋喜左衛門の別邸が向島小梅町にあり、そこを薩摩の人たちが使うようになります。明治4年の廃藩置県で西郷さんが東京に戻った時、実秀もそこで西郷さんに初めて会いました。
実秀は庄内藩に対する寛大な措置に謝辞を述べ、西郷さんから道徳を基礎に文明があまねく広まるような社会をつくりたいという考えを聞いて根っこのところで意気投合し、以後、肝胆相照らす仲になります。
菅実秀が考えていたのは庄内藩をどうするかですね。
戊辰戦争で賊名を被った藩であり、明治政府からの厳しい圧力がありました。特に長州の大村益次郎や木戸孝允は庄内藩解体論を唱えています。
明治3年には庄内から76人が鹿児島に留学しています。
最初に忠篤公と約20人が先行しています。彼らは20代の若者ばかりで、近代的な軍事教練を受け、近代産業について学ぶためです。当時、鹿児島は近代産業の先進地で、大砲やガラス器を製造していました。庄内の人たちはそこで初めて近代産業に触れたわけです。実秀は、若者らを育て庄内の未来を開こうとしたのです。
3千人の武士をどうするかが大きな課題でした。
西郷さんと相談した実秀は、山地を開墾して田畑を開き、当時の輸出産業であった生糸と茶を生産すれば、明治日本の殖産振興の一助になると考えたのです。その計画を西郷さんに相談すると賛同され、協力を約束されました。そして、羽黒山に近い旧庄内藩の丘陵地の払い下げを政府から受け、最初の3カ月で100町歩、次の2カ月半で200町歩を開墾したのが松ケ岡開墾場です。
明治政府は反乱を起こすのではないかと疑っています。
特に長州の人たちは、開墾で心身を鍛え、反乱に備えているのではないかと恐れたのです。大村益次郎は庄内藩の領地替えも提案しています。
その後、開墾場には大久保利通も視察に来ています。
明治8年5月に大久保が視察と称して訪れ、蚕室が4棟立っているのを見て感心しています。その3カ月後、三条実美、伊藤博文、山県有朋が、正式な政府使節として訪れ、助成金として3千円を置いていきます。
養蚕技術については茨城県の島村から、機織りは富岡製糸場から、西郷さんの紹介で技術を導入しました。相談する実秀も心強かったと思います。
明治10年に西南戦争が起こると、庄内では?
鹿児島が決起した時、庄内も決起するだろうというのが大久保や岩倉具視の見方でしたが、庄内は決起しませんでした。菅は「今度の挙兵は西郷先生の真意からのものではない」と判断し、「先生の真意を後世に伝え、先生の遺志を継ぐことに命を捧げよう」と考えていました。
田原(たばる)坂で庄内藩士の榊原正治と伴兼之が戦死しています。
2人は西郷さんから庄内に帰るよう言われたのですが、自分たちは西郷さんと一心同体で、一緒に上京して政府と交渉すると言って聞きませんでした。
伴兼之の兄・鱸成信(すずきしげのぶ)は政府軍で戦っています。
鱸成信は陸軍中佐の忠篤公の内意を受けて陸軍に入り、当時は鹿児島迫田隊の少尉でした。彼も田原坂で戦死しています。
西郷さんの遺訓集を作ろうという話は?
明治22年2月に明治憲法が発布されると明治天皇は西郷さんを恩赦し、西南戦争で剥奪された官位を西郷さんに戻し、名誉を回復しています。それを受け、翌3月には実秀が高弟たちを自宅に集め、今こそ西郷さんの真意を世に知らしめるべき時であると言い、西郷さんの遺訓集を出すことにしたのです。
西郷さんの額が掛かる部屋で4月から作業を始め、12月までにほぼ仕上げました。翌23年2月、東京築地活版製造所で『南洲翁遺訓』約千部が印刷されると、2人ずつ3班で1人が150冊を背負い、全国の有志に配りました。
鹿児島の人は鶴岡の人が遺訓集を出してくれた、よかったと言っています。その後、鹿児島との交流は。
歴史的な経緯から両市に庄内鹿児島会と鹿児島庄内会が誕生し、親交を深めていました。昭和44年に兄弟都市の盟約を結び、親善使節団の相互訪問、兄弟校の提携、中学生親善使節団の1年ごとの相互派遣、青年国内研修生の交流、5年ごとの盟約記念式典、鹿児島市では市電鶴岡号の運行など行っています。