武田信玄生誕500年と信玄堤

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

我が国の治水技術の始祖
洪水被害緩和し農業生産安定

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 先日、甲斐の国(山梨県)を支配した武田信玄の居城だった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡を5年ぶりに訪れた。信玄が残したとされる言葉に「人は城、人は石垣、人は堀」がある。このため「信玄は居城の防備を固めなかった」というイメージが強い。実際には、躑躅ヶ崎館は、天守や堅牢な石垣はなかったが、西郭(にしくるわ)、味噌郭(みそくるわ)が設けられ、堅城の構えを誇っていた。現在は武田神社となっている。神社は大正8(1919)年に信玄を祭神として創建される。今年は信玄生誕500年ということで、例年よりも武田神社を訪れる人が多いようだ。

 信玄は戦国時代、最強の武将として歴史に名を残しているが、治水対策でも優れた能力を発揮したことはあまり知られていない。

自然力利用し水勢減殺

 甲斐の国は、四方を高い山々に囲まれた扇状地に位置する地形上の特質から、治水対策は国を治める者にとっての大きな課題だった。

 甲府盆地は、御勅使川(みだいがわ)、釜無川(かまなしがわ)、笛吹川(ふえふきがわ)の造った複合扇状地となっている。扇状地を流れる河川は、自然の状態では扇状地面を自由に流れるため、釜無川や御勅使川の合流する地域は、自然のままでは洪水の氾濫(はんらん)による水害の危険が非常に高かった。また、甲府盆地からの洪水の出口となる河川は富士川だけであり、出口の禹(う)の瀬(せ)は狭く、洪水のたびに排水能力の不足から浸水していた。仮に、禹の瀬を拡幅すれば、下流に大きな被害が出ることが予想された。

 信玄堤の工事は、天文11(1542)年の釜無川、御勅使川の大氾濫が契機となって始まる。『保坂家文書』によると、永禄3(1560)年、「棟別役」という諸役や税を免除する代わりに、川除(かわよけ)への集団移住を促し、堤防の管理に当たらせたと記録されており、この頃、信玄堤が完成したと推定される。

 信玄堤の特色は、まず将棋頭という圭角(けいかく)の石堤を築いて、御勅使川の水流を南北に二分し、その本流を釜無川浸食崖の赤岩(高岩)にぶつけ、十六石という巨石を配して水勢を減殺するという自然力を利用する工法が取り入れられた。さらに、釜無川左岸には一千余間(1800㍍余)の堅固な堤防を築き、聖牛と呼ばれる水の勢いを弱め堤防を守る工作物を造り、水流の激しい箇所に設置した。これは伝統的な水制工法の一つで、この地域が発祥の地と言われている。三角形の基の部分が牛の角のように見えることから聖牛と名付けられる。木を三角錐(すい)に組んだだけのシンプルな構造で、竹蛇籠と呼ばれる竹で編んだ長い籠に石を入れて重石(おもし)とした。

 聖牛は、通常の増水時には水の勢いを制し、異常な増水時には自壊する構造となっている。過重を受けたままその場を維持しようとすると、「洗掘」(激しい川の流れによって川床や堤防の基盤が削り取られる状態)を起こすなど、周辺の崩壊を促進することから、聖牛は自壊することで、そういった状況を避けることができる。万一決壊しても、氾濫した水が川へ戻るように、雁行(がんこう)状に配列した霞堤(かすみてい)を設けて大出水にも備えた。

 その結果、洪水被害は緩和され、甲府盆地西部では、江戸時代初期に用水路が開削され、新田開発が進むと、安定した農業生産ができるようになる。

 信玄の治水技術は他国(諸藩)にも伝わり、江戸時代には「甲州流河除法」と称され、我が国の治水技術の始祖として讃(たた)えられるようになった。現在の信玄堤は、治水の役割を担いつつ歴史的土木遺産となっている。

中国・都江堰から発想か

 ところで、信玄は、大規模な治水システムの発想をどこから得たのだろうか。大自然の水の巨大な営力に逆らわずに治めるという治水の根本哲学は『孫子の兵法』から学んだものかもしれない。あるいは、今から2250年前、中国四川省に築造された都江堰(とこうえん)という壮大な治水施設のシステムと信玄堤は非常に似ていることから、信玄は都江堰の存在を知っていたのではないか。なぜなら、信玄は『史記』についても若いときから勉強していたが、その中にも都江堰についての記述があるからだ。ここから信玄堤の発想が生まれた可能性もある。

(はまぐち・かずひさ)