「人権外交」日本にとっての意味
東洋学園大学教授 櫻田 淳
「西方世界」との協調演出
及び腰の姿勢は中国を利する
日本の対外政策の下地は、米豪加各国や西欧諸国、すなわち他の「西方世界」諸国との協調の徹底にこそある。ただし、筆者が一抹の不安を禁じ得ないのは、日本が推し進めるべき「西方世界」での協調の徹底が、中国・ウイグル情勢やミャンマー情勢への対応のように「人権」が絡む案件に際しては、「例外」になるかもしれないということである。
ジョセフ・R・バイデン(米国大統領)麾下(きか)の米国政府が「人権」を前面に出した対外政策展開に乗り出すに及び、そうした「人権外交」への呼応に懐疑的な言説が、示されるようになっている。
対象国との関係悪化も
たとえば、河東哲夫(外交アナリスト/元駐ウズベキスタン大使)は、雑誌『ニューズウィーク日本版』上のコラム(4月27日配信)に次のように記している。
「アジア諸国での人権・民主化問題については、日本は現地政府に声明などで大々的に圧力をかけるよりは(それは逆効果になりやすい)内々自重を申し入れて解決策を探る。と同時に、G7や国連などの多国間協議の場で態度を表明していくのが限度だろう。…他国での人権・民主化問題には、その国の人たちの安全と生活をまず第一に考えて、慎重に対応するのが責任ある態度だろうと思う」
また、宮本雄二(元中国大使)は、『朝日新聞』紙上インタビュー記事(4月27日配信)で次のように語っている。
「人権外交で制裁して、状況が改まった例を知らない。効果はほぼないだろう。むしろ、対象国との関係を悪化させる負の面がある。では、何のために人権外交が行われるのか。それは制裁を発動する国の国内世論対策だ。欧米は国民が他国の人権状況の改善を求める。それが人権外交の本質だ。ただ、日本では国内世論の要求は弱い。人権外交をしないと次の選挙で負けることもない」
河東や宮本の認識は、おそらくは正しい。外交が「対等な人間関係」に依(よ)った営みである以上、「人権」を含めて自らの価値意識を大上段にふりかざす姿勢では、そうした「対等な人間関係」を紡ぐのは難しい。
しかし、それは、日本が他の「西方世界」諸国と比べても「人権」案件において及び腰であって構わないということを意味していない。日本が「人権外交」に積極的に乗り出すべき所以(ゆえん)は、次の二つの観点から説明できよう。
まず、日本が展開する「人権外交」の眼目は、現下の中国やミャンマーにおける人権状況を直接に改善するというよりは、日本が「西方世界」国家としての信条を確認し、他の「西方世界」諸国との協調演出を担保することにある。
日本は、「西方世界」諸国の中ではアジアに位置する例外的な立場を持ってきたわけであるけれども、日本の「例外的な立場」が「西方世界」での「異質性」を際立たせるようなことがあってはならない。そうした「異質性」は、往々にして「西方世界」での猜疑(さいぎ)や不信を招く根になるからである。
次に、日本が「人権外交」に及び腰の姿勢に走ることは、現下の米中「第2次冷戦」の構図の下では実質上、中国の立場を利するものである。特にウイグル情勢に絡んで批判に曝(さら)される中国共産党政府にとっては、「人権外交」の展開に際して煮え切らない日本の姿勢は、それ自体が「付け入る隙」として映るであろう。それは、安倍晋三前内閣以来の外交成果を骨抜きにするものなのではないか。
「効果」自体には懐疑的
このようにして、「人権外交」を語る際には、「それが他国の政府の対応に実際に働き掛けられるか」という「効果」を第一の評価の基準としてはならない。筆者は、「人権外交」と呼ばれるものの「効果」それ自体には懐疑的であるとはいえ、それを展開する「意味」は確かにあると観(み)ている。(敬称略)
(さくらだ・じゅん)