コロナ禍で取り残された大学生


沖縄大学教授 宮城 能彦

対面授業求める悲痛な声
「遠隔」なら授業料一部返還を

 新型コロナに関する情報が錯綜(さくそう)し、国民はもう何を信じていいのか分からない状態である。テレビは相変わらず危機感だけを助長して国民を不安にさせているし、一方ネットで情報を集めると、PCR検査を増やすべきだと主張する「専門家」から、意味がないとする「専門家」まで、相反する意見が飛び交っている。

沖縄大学教授 宮城-能彦氏

沖縄大学教授 宮城-能彦氏

 私が最も恐れているのは、新型コロナによる社会の分断である。「自粛警察」が話題となったように、外出できないストレスや安定した収入が得られない不安が、他人を攻撃する方向へ導くのかもしれない。

小中高校は授業を再開

 そんな状況の中、取り残され、忘れられようとしている若者たちがいる。全国の大学生たちである。

 小中高校の授業が再開され、夏休みもほぼ返上で授業が行われている。さまざまな議論があるとはいえ、旅行が推奨されている現在でも、大学は遠隔授業が主なままである。さらに、多くの大学は早々と10月から始まる後期の授業を遠隔授業中心に行うと発表した。

 ホームページなどで、「学生や教職員の安全を確保するために決めた」とするが、小中高校が授業を行っている現実を前に、それは全く説得力がない。

 最悪なのは、東京のある大手私立大学の学長であった。学費の一部を返してほしいという学生たちに対してのメッセージが、「このピンチを機に、自分の将来やりたいことを考えてほしい」「頼れるのは自分だけです。自分が何をしたいか分かれば、耐えられる。教育の根本にあるのは、この意欲なんです」なのだ。教育論としてはごもっともだが、それが「授業料を返さない理由」となるのであろうか。

 学長はさらに続けて、「私は大学に入学した年の10月から半年間、学生運動で授業が休講になりました。翌年は再開しましたが、休み癖がついて授業に行ったのは20日ぐらい。『これではいけない』と思って(中略)留学しました」という自慢話を展開する。

 学生運動で授業がないことと、コロナで授業がないことは全く別である。留学を予定していた学生は海外に行けない苦痛を味わっているのだ。今、学生は、授業がなくて暇なのではなく、毎日毎日のリモート授業と膨大な課題に追われて多忙である。従来ならば90分の対面式授業を聞けばよかったものが、今は、例えば60分のリモート授業を受けて、不足分30分は課題が与えられる。毎回「テキストの第〇章を読んで、次の課題に答えなさい」と課題だけの授業も少なくない。

 1時間目は対面式のゼミ(演習)のため出校したが、2時間目は遠隔授業なので学食でスマホを使って受講。コンピューター室は密を避けて入室制限だが、学食は結構密な状態だという報告もある。

 もちろん、たくさんの課題をこなすことによって得られることもある。これまでただ座っていただけの授業が、むしろ能動的になったということもある。

 しかし、学生たちやその保護者が大学に期待していたことは、単に授業から得られる知識だけではなかったはずである。

 私は、かなり以前から「授業料」ではなく「在籍料」と名称を変えることを提案している。大学で得られるのは授業からだけでない。そこで出会う友人・教師、図書館、研究の場が醸し出す空気、大学生という特権を生かした学びやバイト。大学という自由な「空間」と「時間」だからこそ学べることは多い。

 若者の「草食化」といわれて久しい。総じて今の大学生はまじめで、おとなしく、従順である。大学生たちは、ただ黙って従っているのだろうかと思い、SNSを検索してみた。すると、そこには大学生たちの悲痛な声がひしめいている。大手メディアが取り上げてくれないのである。できれば、ツイッターなどで、「#大学に行かせてください」「#対面授業を受けたいです」「#大学生の日常も大事だ」などを検索してみてほしい。

 前期はやむを得なかったのかもしれない。しかし、後期も基本的に遠隔授業を行うと早々と今決定するのなら、授業料の一部返還も検討する必要があるだろう。「困窮者には奨学金を支給しています」「パソコンその他を無償で貸し出しています」というのは本質ではない。

大学とは何かの議論を

 これを機に、大学とは何か、人々は大学に何を求めているのか、という議論が大きなものになってほしいと思う。

(みやぎ・よしひこ)