パステルナーク事件の真相
日本対外文化協会理事 中澤 孝之
「反ソ的」と『ジバゴ』発禁
フルシチョフは回想録で後悔
ソ連の詩人兼作家ボリス・パステルナークの名前を知らなくても、『ドクトル・ジバゴ』というタイトル名は今なお、人口に膾炙(かいしゃ)している。「ララのテーマ」曲で有名な米伊合作の文芸長編映画の題名にもなっているからだ。
およそ60年前,スウェーデン王室文学アカデミーによって1958年度のノーベル文学賞に選ばれたのがパステルナークだった。「私の最も重要な労作。私としては恥じることなく、また勇敢に責任を負える唯一のロマン」とパステルナークが言った大河小説『ドクトル・ジバゴ』。
ノーベル賞に当局反対
この作品を、「雪解け時代」を招来した当時のソ連共産党第1書記兼首相ニキータ・フルシチョフ率いるソ連当局が、「反ソ、反革命的」と決め付け、パステルナークの受賞に反対したことから、「劇的な授賞」と評されたこの出来事は、たちまち「事件」に発展した。『ジバゴ』は「ソ連における共産主義による自由の抑圧に対する文学的原子爆弾」ともいわれた。
パステルナークは55年3月に、長年書き続けてきた『ジバゴ』を脱稿。草稿をソ連作家同盟機関誌「ノーブイ・ミール」に送った。作家同盟は内部検討を重ねた結果、56年9月、同盟幹部5人の共同署名の手紙で、パステルナークに掲載拒否を通達。クレムリン指導部の意向に従った決断であったに違いない。手紙には要旨、「主人公(ジバゴ)は弱いインテリゲンチアの典型である。革命の道を最後まで歩まねばならない。あなたの小説の精神は、社会主義革命の否定である」と書かれてあった。
『ジバゴ』を発禁扱いにし、パステルナークを反ソ作家として弾圧する決定を下した責任者は、ほかならぬ最高権力者フルシチョフだった。そのフルシチョフは64年10月、ブレジネフらの宮廷クーデターによって突如解任され、不運のうちに恩給生活を送っていたが、71年9月に死去した。享年78歳。パステルナークが70歳で60年5月に亡くなって11年後だった。筆者はモスクワのノボジェービッチ修道院でのフルシチョフの遺体埋葬、家族や知人だけが出席したつつましい葬儀に立ち会ったことを思い出す。
フルシチョフは晩年、密(ひそ)かに回想録の口述に全精力を注いだ。そして70年末に『フルシチョフ回想録』第1巻が西側で出版された。フルシチョフはこの中で次のように述べている。「恩給生活者として生涯の終わりに近づいている今、私はパステルナークを支持しなかったことを遺憾に思っている。自分が手を下してこの本を発禁にしたこと、そしてスースロフ(注・「この著作は質的に劣悪かつ極めて異様で、印刷することは有害」との党中央委報告を準備した政治局員)を支持したことを後悔している。自分がパステルナークにとった態度を真に遺憾に思う。一つだけ言わせてほしいが、私はこの本を読まなかったのだ」。
日本でベストセラーに
「パステルナーク事件」は西側での『ジバゴ』出版をめぐる狂騒曲に発展した。最初にロシア語原稿を入手したイタリアの出版社によってイタリア語版が出た。続いて英語版なども。日本の出版界も当然、これに巻き込まれた。詳細な経緯は省くが、最終的に版権を獲得して初の日本語版を出版したのは、文芸専門の出版社でなく、時事通信社であった。時事の週刊誌「世界週報」58年11月8日号から短期連載が始まり、単行本上巻は予定より3カ月も早く、59年(昭和34年)1月24日に刊行、発売。怒涛(どとう)のような売れ行きを見せた。「せいぜい2万部」との訳者原子林二郎記者の予想をはるかに上回る、上下巻合わせて23万部を超える大ベストセラーの誕生だった。時事は80年5月、ロシア文学者江川卓訳の全面的改訂版を出版した。
最後に、本稿は評論家内村剛介の研究で知られた故陶山幾朗氏の遺作『パステルナーク事件と戦後日本―「ドクトル・ジバゴ」の受難と栄光』(恵雅堂出版/2019年11月20日初版発行)を参考にしたことを申し添えたい。
(なかざわ・たかゆき)






