まかり通った日教組推薦 革新行政下の校長人事
苦言を呈した田中角栄
庶民宰相と呼ばれた田中角栄(1918~93。首相在任72年7月~74年12月)は、今なお語りぐさだが、今年出版された「田中角栄100の言葉」(宝島社)の中には、戦後教育の問題点について明言したものがある。
「教育に政治を持ち込み混同させていることが間違いだ。一定の思想(筆者注・教科書問題の背後の反日的な共産主義思想)を混同させ、教育を混乱に追い込んでいる。政治から教育を切り離すことが急務だ」
教師になった私が戦後の教育に危機感を持ったのは、公立小・中・高の学校が、当時の社会・共産両党の政治の道具にされていることだった。日教組(日本教職員組合)という教員労組がその指揮をとり、社会党国会議員、地方議員を生み出していた。
公務員も個人としては選挙の自由はあるが、組織としての票集め、資金集めはもちろん違法なのだ。しかし、日教組は法を破り政党支持を明らかにした。
母国を愛し、世のため人のために有能有為な人材を育て、隣人愛と家族愛に満たされた社会に有能な人間に育てるのが教育の最大の目的である。公立学校においても然り。私はそのように考える。
それが戦後の日教組により間違った方向に流された。小・中・高の公立学校生徒の父母が戦後の日教組教師を恐れたのは、そのことであった。しかし、父母、国民はそれを知りつつも、我が子が教師のいじめに遭うことのないように沈黙を守った。
その結果、戦後の異常な教師の世界、日教組の政党支持がからんだ“いじめ”教育の実態は教師の間に及んでいった。「一定の思想を混同させ、教育を混乱に追い込んでいる」と、かつて田中元首相の語ったとおりの出来事だった。
特に私が赴任した北海道は、かつての共産国・ソ連に近接していたせいか北教組(北海道教職員組合、日教組に所属)の勢いは強かった。革新系知事になると、さらにそれは強化され、管理職である校長も北教組推薦の形が見え隠れした。
私が最後に勤務した公立中学校のN校長は、北教組出身といわれた剛の者だった。地方都市のドーナツ現象で田んぼの中にできた新設中学校の初代校長だった。
私は別のK中学校の3年A組担任教師だった。当時、道内公立中学校に女性教師の数は少なかった。クラス担任をする女性教師はまれで、私は願い出て担任をしていた。新設中学ができると、直ちに私が引き抜かれた。せめて担任している3年A組の生徒たちを卒業させるまで半年待ってほしい。そう訴えたが聞かれなかった。
適性が疑わしい人でも
やむなく私は新設中学校に転勤した。次々に若い教師たちも増えてひとりの年頃の女性教師も加わった。間もなく同僚の男性教師と恋仲になった。しかし、N校長はこの女性教師に嫌がらせをし、そして二人の仲を裂こうとした。私は彼女を呼んで真意を聞き、密かに二人を結婚させた。
さらにN校長は四季折々に学校行事の度に酒席を設けたが、年ごとに教員の数は増え、若い青年教師らの中には酒の飲めない者もいた。しかし、酔っ払ったN校長は強引に酒を飲ませようとした。「酒ぐらい飲めなくて教師ができるか!」。
私は彼らをかばい、N校長に言った。「校長先生おやめなさい。酒が飲めなくてもジュースやサイダーで彼らは喜んでいるじゃないですか。そんなに飲ませたければ、私を相手になさい」。「おっ、そうか!」。
N校長は一升瓶を手にして私と向き合った。若い教師らの見守る中で一騎打ちが始まった。そして遂に彼は言った。「負けた!もうよい…」。無念そうなN校長の最後の言葉だった。
労組推薦が校長人事を左右した革新道政の時代。日教組は不可解な管理職を育てたのだった。