普天間第二小に米軍ヘリ窓枠落下、移設遅れで市民から不満噴出

校舎移転頓挫で危機高まる

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)に隣接し、ヘリ墜落など事故の危険にさらされてきた同市立普天間第二小学校の運動場に米海兵隊所属ヘリCH53の窓枠が13日、落下した。同飛行場の早期移設、危険性除去に向けての取り組みが見えないことに、宜野湾市民からは不満が噴出している。(那覇支局・豊田 剛)

任期最終年を迎える翁長雄志知事

「辺野古」関連で五つの訴訟を抱える

普天間飛行場移設遅れ、宜野湾市民から不満噴出

嘉数高台公園から望む普天間飛行場。奥に普天間第二小がある

 翁長雄志知事は事故の2日後、首相官邸で菅義偉官房長官や山本朋広防衛副大臣らと会談し、ヘリ窓落下に対し抗議した。山本氏には「普天間飛行場所属のすべての航空機の緊急点検とその間の飛行中止」を求めるとともに、政府の責任で同飛行場の危険性の除去を速やかに講じるよう要請した。

 普天間第二小は、1969年、普天間小から分離してでき、普天間飛行場の北側に隣接している。運動場が同飛行場とフェンス越しに接している。ラムズフェルド米国防長官(当時)が発したとされる「世界一危険な飛行場」の象徴的存在といわれてきた。

 同小学校はこれまで幾度となく、本格的な移転計画が持ち上がったが、予算面などでPTAの合意が得られなかったことや、基地反対運動をする市民団体などの抵抗が理由で頓挫した。

 80年9月25日。市長の安次富(あしとみ)盛信氏は、「騒音で中断を余儀なくされ、適正な教育活動もできない。移転することが得策だ」と考え、第二小の移転先として同飛行場と500㍍ほど離れたキャンプ瑞慶覧の西普天間住宅地区(2015年3月に返還)を米軍と政府に求めた。

 そして米軍の大型ヘリコプターが沖縄国際大(宜野湾市)に墜落したことをきっかけに、普天間飛行場の返還合意が1996年になされた。すると、反基地団体が「小学校の移転よりも基地移転が先だ」と主張を始めた。さらに、移設先の小学校が米軍の敷地内にあることから反基地市民団体が激しく抵抗し、移転は実現しなかった。

普天間飛行場移設遅れ、宜野湾市民から不満噴出

辺野古代替施設工事差し止め訴訟を前に支援者を前に演説する翁長雄志知事=10月10日、那覇市の城岳公園

 日米両政府の返還合意から21年たつが、返還は代替施設の完成が条件になる。県としては、仲井真弘多(なかいまひろかず)前知事が辺野古沖の埋め立てを承認した際に政府が約束した2019年2月までの運用停止の実現を求めているが、政府は「県側の協力が前提」と強調する。

 今回の落下事故を受け、自民党沖縄県連の照屋守之会長は、「一日も早く辺野古移設を実現しなければならない。反対するだけでは解決しない」と強調した。宜野湾市民の安全な生活を守る会の平安座(へんざ)唯雄会長は、「『県外』という不毛の議論に固執する翁長知事は、恣意(しい)的に普天間飛行場の移設を遅らせている」と憤る。

 14年12月10日に知事に就任した翁長氏は、辺野古移設反対のことを「“新基地”建設阻止」と表現して、県政の最優先課題に据えた。今月11日、任期最終年の4年目に入ったが、辺野古移設阻止に固執するあまり、普天間飛行場の移設や危険性除去に対する取り組みはおろか、移設作業を遅らせてしまっているのだ。

 「辺野古に“新基地”を造らせないとの思いにみじんの揺らぎもない」。記者団にこう述べた翁長氏は9日、「県民の理解が得られない基地建設を断念してほしい」と河野太郎外相に迫った。

 こうした結果、翁長氏は知事就任以来、辺野古移設反対に関して五つもの訴訟を抱えるまでに発展した。

 中でも、15年10月に翁長氏が埋め立て承認を取り消した際、防衛省はキャンプ・シュワブ沖での作業中断に追い込まれた。移設作業中断に伴う損害額は1日当たり最大約2000万円に及び、防衛関係者は「移設作業は少なくとも1年は遅れる」と話す。

 それでも、移設を阻止するには至っていない。キャンプ・シュワブ沖の護岸建設は着実に進んでおり、来年秋ごろには土砂投入される予定だ。

 県は、護岸工事に伴う石材輸送に、県管理の国頭村奥港の使用を「法令上問題ない」との理由で認めた。共産党や反基地市民団体は、「公約違反」と厳しく批判。国頭村奥の自治体は「総意」として港使用反対を決議した。

 「保革を超えて」の理想で「オール沖縄」という立場で当選した翁長氏だが、元保守系の大半は離れ、極左勢力から突き上げられるという厳しい現状に直面している。

 翁長氏は港使用について「重大な決意で臨む」と大きな決断を示唆したが、これまでのところ具体的な動きは見えない。