石垣市が尖閣に標柱設置、議会は意見書を可決
尖閣諸島を行政区域に持つ沖縄県石垣市は、昨年、字名を「登野城尖閣」に変更したことを受け、新しい字名を示す標柱を設置する方針だ。同市議会では上空視察を求めるなど尖閣諸島に関連して三つの意見書を採択した。中国が海警法を施行し、領海・接続水域への侵入を常態化させている中、実効支配をアピールする狙いがある。(沖縄支局・豊田 剛)
「尖閣諸島」の字名変更を受け、標柱を新設する方針
石垣市議会は昨年6月、尖閣諸島の住所地の字名を「登野城」から「登野城尖閣」に変更するよう求める議案を賛成多数で可決。これを受け市は10月に字名を変更した。
実効支配を明確にする次の手段が行政標識の設置となる。標柱は1969年、石垣市によって立てられたが、腐食したり、場所が間違っていたりしているという。また、翌年には琉球政府は警告板を設置した。
市議会3月定例会最終日の15日、中山義隆市長は、「新年度に標柱を製作し、上陸許可の申請について国と協議する」と述べた。また、尖閣についての資料を展示することについて「検討を進める」と明言した。
尖閣諸島の上空視察の要求など三つの意見書を可決
議会では尖閣諸島に関連し、三つの意見書が賛成多数で可決された。
まず、尖閣諸島の上空からの視察を求める意見書だ。「領土は先人から受け継いできた大切な財産であり、後世に責任を持って保存活用していくため」にも、石垣市が適切な政策を講じることが必要とした。
意見書を提案した仲間均議員によると、海上保安庁の巡視船に同乗して海から視察することを打診したが、断られたため、民間チャーター機を手配しているという。5~7人乗りで、数回に分けた飛行を想定しており、共産党など野党も視察に関心を示している。
沖縄県が上空視察したのは、2011年に仲井真弘多知事が自衛隊機で行ったのが最後。当時は中国の福岡総領事を通じて抗議があった。その後は県知事も石垣市長も上空視察できていない。
市は21年度にも国に上陸許可申請をする方向だという。過去、10年前後に戦時遭難者の慰霊祭などを理由に上陸許可申請したが、認められなかった。
国は今回の視察にも難色を示している。加藤勝信官房長官は「政府としては尖閣諸島および周辺海域の安定的な維持、管理という目的のため、原則として政府関係者を除き何人も尖閣諸島への上陸は認めない方針を取っている」と原則論を語った。
海警法を批判する意見書も、県は海兵隊撤退を要求
また、尖閣諸島周辺などを航行する海警局の艦船に武器使用を容認する「海警法」を中国が施行したことに対し「国際法違反」と指摘する意見書案も可決した。
米国の台湾安全保障に関わる台湾関係法を習った「日台関係基本法」を求める意見書も可決した。この中で、「自由と民主主義、基本的人権の普遍的価値を拡大すべき」とし、台湾とASEAN諸国と共に中国を牽制(けんせい)する狙いがある。
一方、沖縄県は、来年迎える本土復帰50年に向けて在沖米軍の整理・縮小を求める政府への要請を予定しているが、その中で、「海兵隊撤退」の文言を盛り込む方針であることがこのほど明らかになった。玉城県政が海兵隊の撤退要求まで踏み込んで要請するのは初めてとなる。
又吉清義県議(自民)は、「支持政党・団体向けの選挙用パフォーマンスではないか」とした上で、「緊張状態にある現実を無視してはならない」と警鐘を鳴らした。
魚釣島への不時着は日本領土である証拠
南西諸島安全保障研究所所長 奥 茂治氏
いち早く本籍地を尖閣諸島の魚釣島に移し、昨年実施された尖閣諸島の字名変更と標柱設置を呼び掛けた奥茂治氏に、尖閣諸島が日本領土である証拠について語ってもらった。
1919年(大正8年)、尖閣諸島付近で遭難し、魚釣島へ避難した中国福建省漁民の男女31人を、当時、魚釣島で事業を営んでいた古賀善次氏らが救助し、その後、遭難者は石垣島に移った後、中国へ送還した。この事故について、翌年5月20日、長崎駐在中華民国領事が石垣市長(当時は村)宛てに感謝状を送ったことはよく知られている。
もう一つ、決定的な出来事がある。40年2月5日、大日本航空の旅客機阿蘇号は、福岡から台湾の台北に向かって出発。那覇を経由し、台湾に向け、東シナ海上空を飛行していたが、尖閣諸島の魚釣島上空の少し手前の地点で、右エンジントラブルが発生した。その際、台湾にたどり着いたとしても日没後の不時着は極めて危険なことから、操縦士は魚釣島への不時着を決意した。
翌朝、筑波号が援助のために飛来し、食料や毛布を上空から投下した。その上、救助のために魚釣島に多くの船舶が向かった。搭乗していた13人全員は奇跡的に無事だった。
あまり知られていないが、この事故は、尖閣諸島が日本領土であることを物語っている。
(談)