被災地支援に尽力、仲井真元沖縄県知事に聞く

 東日本大震災発生から明日で10年になる。沖縄県は、積極的に被災地支援を行った。当時の仲井真弘多(ひろかず)知事は、その決断力と政治力、交渉力でスピーディーな支援を実現。大震災を想定した災害対策の強化にもすぐに着手した。(沖縄支局・豊田 剛)


トップダウンで迅速な対応、「日本の一員として当然」

被災地支援に尽力、仲井真元沖縄県知事に聞く

東日本大震災の被災者支援について語る仲井真弘多氏=3日、沖縄県那覇市で(豊田 剛 撮影)

 「これは国難だ。日本の一員として、どこであれ困っている所に手を差し伸べるのは当然のことでしょ」。東日本大震災の感想について尋ねると、開口一番、こう答えた。

 沖縄県庁で震災の一報を受けると、知事公室長と相談し、1時間後に部長クラス全員を集めた。躊躇(ちゅうちょ)しなかった。沖縄県にも余震や津波の被害が及ぶ可能性があるとして、国や市町村と連携し対策を取ること、さらには、県外に住む沖縄県人の安否確認をするよう指示した。

 東北の空の玄関である仙台空港が被災し、空輸での支援が限られている中、すぐに自衛隊に連絡し、物資の空輸で協力を仰いだ。日頃、自衛隊との良好な関係を築いていなければできないことだった。

被災者受け入れは九州最多、生活必需品への割引も実施

 「多くの被災者が出ているに違いないから、沖縄に来てもらおう」。損得勘定を一切排除し、すぐに「5万人を受け入れるにはどうすべきか、どのぐらいの予算が必要か」と担当部局に試算を求めたほどだ。

 当時、沖縄は観光が好調で移住者も増え、また、県の予算も限られており、5万人の居住地の確保は難しく、最終的には1000人超という現実的な数字にとどまったが、それでも九州では最も多かった。

 3月下旬には、県が中心となって東日本大震災支援協力会議を立ち上げた。仲井真氏が会長となり、市町村、民間企業など200近い団体が参加して、沖縄に避難してくる被災者の支援を行った。

 具体的には、災害現地で沖縄への避難希望者を募った。県が航空運賃を負担し、被災者を沖縄に招いた。最初の1カ月間はホテルを提供したが、その費用は県が負担した。その後は公営住宅に入居してもらい、住宅が足りない場合は民間のアパートを借り上げて住んでもらった。

 若手の職員から、被災者が生活必需品で割引が受けられる仕組みをつくれないかという提案が出された。民間企業・団体の協力を得て、交通機関やスーパーでの買い物で割引が受けられるカードを発行した。2期目の仲井真県政の任期が終わる2014年11月時点でも継続していたが、17年3月に終了。東日本大震災支援協力会議も18年6月に解散した。

 「沖縄は戦後復興で日本に大変にお世話になった。このような事態にあって県民の心の温かさ、強い使命感を知り、頼もしく思った」と強調する。

 当時の県幹部は、「国家が必要としていることについて沖縄がどう振る舞うか、地方自治体として通常の地方公務員の仕事以上の能力が要求された。それを身をもって実践していたのが仲井真知事だった」と証言する。

 震災から2カ月後、職員を伴って、被災地を視察した。県で集めた見舞金を岩手、宮城、福島の各県知事に直接届けることが最大の目的だったが、約束なしで訪問すると決めていた。「災害で当然、混乱しているであろうから、県庁に訪問を予告することは、先方の負担になり、迷惑を掛ける」。宮城県南三陸町などの視察でも、現地の方によるエスコートを断った。

沖縄の防災体制も強化、「リーダーは模範を示すべし」

被災地支援に尽力、仲井真元沖縄県知事に聞く

仲井真県政で作成された津波避難関連の標識

 「東日本大震災並みの大規模震災がいつ沖縄に来るか分からない」。沖縄県は海で囲まれた島嶼(とうしょ)にあり、かつ、海抜5㍍以下の海岸沿いの低地に、居住地や産業施設の多くが集中していることから、仲井真氏は13年に津波避難計画を策定。ハザードマップや海抜高度図、津波浸水予測図などの作成。5㍍と15㍍、25㍍の3種類の海抜表示板、さらに、津波避難場所・ビルの標識を県内各所に設置した。大地震に伴う津波が発生することを想定し、自衛隊や米軍も参加する中で防災訓練を実施した。

 大規模な台風の直後には必ず、自ら直接現場に赴くか、幹部を派遣して対応した。こうした迅速な災害対応は革新系の翁長知事が誕生して以来、「ほとんど見られない」(元県幹部)のが現状だ。

 「災害対策で、前もって手を打てることは、ある程度の余裕をもって大規模にやらないといけない。災害対策は行政の大きな柱にして、リーダーになる人は模範を示すべし」

 仲井真氏の指摘を聞くべきは玉城デニー県政ではなかろうか。