プリンスの同性婚反対表明を「小さなさざ波」としたNW日本語版

◆「伝説的歌手」を追悼

 世界的ヒットとなったアルバム「パープル・レイン」などで知られる米国の男性人気歌手のプリンスさんが4月、米国ミネアポリス郊外の自宅で死亡、57歳だった。グラミー賞を7回受賞しており、米メディアは「伝説的歌手が死去した」と伝えている。ニューズウィーク日本語版5月3・10日号は「紫の異端児プリンスその突然過ぎる旅立ち」と題し、追悼特集を組んでいる。

 プリンスは、ある時のパフォーマンスでは、自身の歌唱力、男性らしさを強調する一方、女性の官能的ポーズなどを売り物とし耳目を集め、長年、トップ歌手だった。「セクシュアリティー(註・男女の性別)に境界線…があるという考え方自体を厚底の靴で蹴散らし、否定的な視線を送る人々の目の前で股間を揺らしてみせた」と記事は言う。

 「(プリンスが)84年のヒット曲『ダイ・フォー・ユー』には『俺は女じゃない。俺は男じゃない。君が決して理解できない何かだ』という歌詞がある。その言葉どおり、男性らしさと女性らしさの両方をすんなりと体現していた」とし「ジェンダーの壁を軽々超えて」いたと評価している。プリンスの芸歴の一面を切り取った表現ではある。

 だが、その一方で、彼自身は2001年にキリスト教系の新宗教「エホバの証人」に入会し、神の存在を認め、ゲイ嫌いを明言、同性婚についても反対するようになった。この事実について、記事を書いたクリスティーナ・コーテルッチ記者は「ゲイのアイコンとしてファンに愛された彼がアンチゲイに改宗したとしても、カオスの海のようなプリンスの世界では、そんな出来事は小さなさざ波に過ぎない」と断じている。さらに「矛盾に満ちた豊かさこそが、プリンスを強烈な磁力を放つアーティストにし、音楽のジャンルばかりかジェンダーの壁も軽々と飛び越える天才にした」と記事を締め括(くく)っているが、これに対し、同性婚への反対表明が「小さなさざ波に過ぎない」というのはいかにも不当だ。

◆有神対無神論の問題

 既に、小紙では数年前から、米国発の特派員電あるいは連載記事の中で繰り返し伝えてきたことだが、LGBT(性的少数者)の声高な主張、同性婚の認容問題は、欧米では、有神論を打倒しようとする無神論者たちの攻撃という歴史的文脈の中で展開している。プリンスが後年、キリスト教徒となることによって同性婚の根拠を一蹴するようになったのは、彼にとって、人生を画する大いなる事実であったろうし、人々に与えた影響は少なくなかろう。決して軽く扱うことはできない。

 また記事では「ジェンダーの揺らぎを受け入れたプリンスだが、彼自身の性的指向は謎のままだ。インタビューでは異性愛者だと答えることもあったが、肩をすくめてみせるか、『それが何か?』と質問をはぐらかすことのほうが多かった」という。つまり、彼自身、男性、女性の要素を時と所によって変化させ強調したのは、衣装をとっかえひっかえするのと同じ一つの装飾的な効果として、計算づくだった節がある。「プリンスの変幻自在なジェンダー観」というのは、当の雑誌、マスコミが彼のパフォーマンスの奇抜さに目をつけ、うまく形作ったものではないか、という疑問もある。

 一方、わが国でも、今、同性婚問題が起こっている。日本の同性婚推進運動には、有神論と無神論の対立というよりは、伝統的な家族、家庭観を否定しようという思惑が見られる。しかし運動として推進する人たちの主張に対し、その危うさを指摘し、警鐘を与える知識人たちは必ずしも多くはない。

◆男女があっての家庭

 哲学者の和辻哲郎は著書『風土』の中で、日本の伝統的な家族、家庭について「男女の間はあくまでも夫婦親子の間にもとづくと言わねばならぬ。これが『家族』としての人間の共同態である。だから人は家族の全体性において初めて夫婦親子男女として役目づけられるのであ」る。「人の『間』の最も手近なものは(中略)男と女との『間』である。男といい女という区別は、すでにこの『間』において把捉せられている。すなわち『間』における一つの役目が男であり他の役目が女である。この役目を持ちえない『人』はいまだ男にも女にも成っていない」と書いている。

 健全な家族観は欧米のキリスト教的価値観と変わることのない国を支える道徳・倫理思想と表裏一体のものだ。

(片上晴彦)