共産と民進との共闘を後押しする朝日一連の憲法シリーズ・コラム
◆国民に遵守求めず?
憲法記念日の3日付朝日には驚かされた。根本清樹・論説主幹が1面肩のコラム「座標軸」の冒頭にこんなことを書いていたからだ。
「喫茶店や居酒屋での勉強会はクイズから始まる。『国民は憲法を守らないといけない。○か×か?』。正解は×――」
なんと国民は憲法を守らなくてもよいと言っているのだ。勉強会は「明日の自由を守る若手弁護士の会」が開いているもので、同会の新著『憲法カフェへようこそ』になぜ×が正解か、説明があるという。
それによると、「法律は国民が守らなければならないが、憲法は違う。憲法は、国民が首相や大臣、国会議員などの為政者に守らせる約束事。…憲法には政治権力がしていいこと、いけないことが書いてある。権力を憲法で縛り、暴走を防ぎ、国民の基本的人権を守る」。それが「立憲主義」の思想なのだそうだ。
座標軸の見出しには「立憲主義を取り戻す時」とある。安保関連法を制定した安倍政権は憲法を破ったので、立憲主義を取り戻し、政権に縛りをかける。その答えを参院選で出そうというのだ。要するに「民共」共闘の後押しだ。
が、どう考えても首を傾げる。憲法は国家存立の基本的な条件を定めた根本法だ。憲法に基づいて法律も制定される。それにもかかわらず国民は、法律は守るが、憲法は守らない? そんなことが許される立憲政体の国が世界のどこにあるというのだろうか。
確かに立憲主義は憲法で人権を宣言し、権力分立を原理とする統治機構を定め権力に縛りをかけるが、その一方で多くの国は国民に義務も課す。それは近代国家には権力機構の「ステート」としての国家と、歴史や伝統的な国民共同体である「ネーション」としての国家の二つの側面があるからだ(百地章・日大教授)。
◆秩序乱すデモを擁護
それで近代憲法には国家権力を縛る(制限規範)だけでなく、共同体として権力そのものを付与する(授権規範)の二つの性格がある。憲法が英語で「コンスティチューション」(語源は体質=国体)と呼ばれるゆえんだ。
そういう近代憲法観を朝日は無視し、ひたすら権力を縛るだけの、つまり国家と国民を対立関係で捉える階級国家観に固執する。4月1日から始めた連載「憲法を考える 自民改憲草案」にその思想が凝縮しているようだ。
連載は「前文」編を5回、「公の秩序」「家族」「個人と人」の各編をそれぞれ3回ずつ掲載したが、いずれも階級国家観で自民案を真っ向から否定してみせた(前文編は4月12日付本欄で論評)。
「公の秩序㊦」(14日付)では自民案が「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とあるのに異を唱え、「少数派を守るのが立憲主義」(見出し)として「世の中には、社会に迷惑をかけてでも、守らなければならないものがある」と、こう言ってのけた。
「例えば、デモ。石破茂・地方創生相はかつて、特定秘密保護法反対デモをテロに例え批判を浴びたが、うるさくても、交通の邪魔になっても、議会制民主主義を補完する、主権者に認められた大事な手段だ」
そうだろうか。このデモは朝日も書くように、うるさくて、交通の邪魔になって、実に迷惑だった(筆者も国会前で遭遇した)。それでも許されるというのは傲慢だ。
政治デモは「公の秩序」に反してもよいとする論理は、かつて極左過激派が振りかざし、デモのルールなどを定めた公安条例を違憲だとして裁判闘争を繰り広げた。勝訴したためしがないが、それにも懲りず朝日は極左流デモ擁護論を持ち出してきた。
◆マルクス的立憲主義
これは正真正銘のマルクス主義だ。社会を支配と被支配の階級社会と捉え、国家は「支配階級の道具」(レーニン)、悪なる存在と見立て、道徳や伝統は支配の道具にすぎないと排除する。朝日の底流にはこんな考えがあるのだろう。
西修・駒大名誉教授は産経2日付「正論」で、マルクスの『共産党宣言』の冒頭をもじって「ひとつの妖怪が日本国を徘徊している。それは立憲主義という妖怪である」と、手前勝手な立憲主義の横行を嘆いている。順法精神のかけらもない朝日流の立憲主義はもじらなくても共産主義だ。
(増 記代司)