人間教育に心尽くした北條時敬

金沢ふるさと偉人館で企画展開催

 金沢市の金沢ふるさと偉人館で開催中の「北條時敬とその教え子たち」では、旧制第四高等学校(以下、四校)校長や東北帝国大学総長、学習院院長などを歴任した教育者・北條時敬(ときゆき)(1858~1929年)にスポットを当て、その生涯と業績を紹介している。北條の教え子には西田幾多郎や鈴木大拙、山本良吉ら多彩な人材がおり、「生涯の恩師」と敬慕された。(日下一彦)

教え子との逸話など生涯と業績紹介

伊藤博文に「酒宴」諌める書簡も

人間教育に心尽くした北條時敬

北條時敬の肖像画や学生時代のノートなど60点の展示物=金沢市の金沢ふるさと偉人館

 「大きい山に接していると、それが全体どういう山かよく分らない。私は先生については、いつもそんな感じがする」。これは『善の研究』で知られる世界的な哲学者・西田幾多郎の恩師評である。西田にとって北條は、極めてスケールの大きい人物に映ったことがうかがえる。

 北條は安政5年、金沢市池田町に生まれた。父は加賀藩士で、幼名を粂(くめ)次郎といった。14歳で元服し時敬と改めた。少年時代は乱暴者だったと本人は回顧している。経歴をたどると、明治18年(1885)東京大学理学部数学科を卒業し、同年石川県専門学校教諭となる。翌年、地元出身の近藤薜(まさき)と結婚し、2男6女に恵まれた。同21年に第四高等中学校教諭となり、この時の教え子に西田幾多郎、仏教哲学者の鈴木大拙、国文学者の藤岡作太郎、天文学者の木村栄、山本良吉らがいる。山本は国内初の旧制七年制の武蔵高等学校の創成者として名を成した教育者だ。

 この頃こんな逸事が伝わっている。「カンニング事件」といわれるもので、北條が試験の答案を調べていると、全く同じ答案が出てきた。学生たちを信頼し、試験の監督をしなかった。北條は「教わる者はもちろん悪いが、教えるものもなお悪い。そして級(クラス)全体がこんな不正を黙視しているとは言語道断だ。皆を落第にせねばならぬ」とすごい剣幕で怒った。

 学生たちは全員で北條の自宅に出向き、平謝りして事は収まったが、その後の試験でも北條はこれまで同様、監督しなかった。学生を信じて疑わない温かい心が学生たちの胸を揺さぶり、その後、カンニングする学生はいなくなった、という。こうした学生を信じる姿勢は、どこに行っても変わらなかった。

人間教育に心尽くした北條時敬

流れの圧力などを研究したベルヌーイの定理など高度な内容が記されている物理学のノート=金沢市の金沢ふるさと偉人館

 その後、金沢を離れて第一高等中学校(東京)で嘱託講師をしながら、帝国大学大学院で6年間、物理学を学んだ。同27年、36歳の時に学生運動を鎮めるため山口高等中学校教授に就いた。北條は生涯、教育者の道を歩むが、この頃から教育行政が主な役割となっていく。

 同31年、40歳で四高の校長に就任。当時の四高は学生たちが飲酒し、学校が荒廃していた。それを立て直すため、「学生たる者は学問に励み、人格を磨くのが本分」と訓示し、学生に禁酒を命じ、従わなければ退学や停学の厳しい措置を取った。教師についても同様だった。

 ある時、反発する学生たちに背後から襲われ、棒で腰や足を何度も叩(たた)きつけられた。彼らを校長室に呼び出し、一人ひとりの顔を見詰めながら、「近ごろの学生は男らしさがなくて癪(しゃく)に障っていた。それがこの学校に来て、頼もしい君たちに出会った。愉快でたまらない。その元気さを学問に向けて立派な成績を収めてもらいたい」と話したという。このように、北條は人間教育に心を尽くしている。

 また、四高時代にはこんな逸話も残っている。時の権力者伊藤博文が産業と教育の視察に金沢を訪れた。その際、伊藤を諫(いさ)める書簡を送っている。伊藤は地方視察では決まって地元の花柳界で酒宴を開いていた。書には「閣下のような方がそのような悪い手本を示されては、政界が乱れるばかりか、学生にも悪い影響を及ぼすので金沢では酒の席を慎んでいただきたい」と記されていた。もし伊藤が金沢で酒宴を開けば、門を閉ざして学内には入れない覚悟だったという。伊藤をして「第四高等学校の校長の北條という男は畏(おそ)ろしい男だ」と言わしめた。

 その後、同35年に新設された広島高等師範学校の初代校長になり、大正2年(1913)東北帝国大学総長に就任した。ここで北條は帝国大学では初めて女子学生を受け入れている。当時の女子は帝国大学の選科には入学できたが、本科には入れなかった。東北帝大は新設校で学生集めに苦労していたこともあり、女子に門戸を広げるチャンスでもあった。最終的に学習院院長に就いている。同館の増山仁学芸員は「教育者として頂上まで上り詰めた人物」と評している。同展は11月25日(日)まで。入場料一般300円、高校生以下無料。