温かい平昌五輪を願う
パルパルを懐かしみ
平昌冬季五輪開催まで2カ月余り。1988年のソウル(パルパル)五輪を懐かしく思い出す。
私は新聞社の外報部五輪取材班のチーフだった。競技取材は運動部が中心だが、これを機にどう韓国と共産圏の交流の扉が開き、韓国内民主化が進むか―五輪半島の政治模様に注目して、外報記者6人も大会前から2カ月現地に張り付いた。
特に二つのことを覚えている。一つは離散家族の再会だ。中国、ソ連、東欧などにいた肉親が、五輪を機に一時帰国を認められ、涙の再会が実現した。私たちは、1909年の安重根の伊藤博文暗殺事件に18歳で加わった劉東夏の実弟で、その後東欧に脱出した劉東周さん(当時81歳)に会った。日本をどう思っているか尋ねると、温かく穏やかに答えた。「もう79年前の事件。日本にこだわりはない」
もう一つは、五輪の前に、韓国の急進派学生団体が北朝鮮側と呼応し、「民族和解・南北学生国土縦断大行進」を、済州島の漢拏(ハルラ)山頂から始めようとした出来事だった。若い女性記者とカメラマンを取材に出した。だが、学生たちは昼頃1950㍍の山頂に集結する予定が、警察に阻まれ、夜8時すぎ数人が登り着いただけ。わが社の2人は山頂で待ち続け、カメラマンはその写真を撮り、電送のためすぐ下山した。
ところが、女性記者はその後何時間も行方不明で、無事と分かったのはやっと夜半すぎ。軽い高山病でフラフラしていたのを、警察に保護されたという。
女性記者はまだ稀少(きしょう)で貴重な存在だった。それが真夜中の山で行方不明である。ソウルの私も生命が縮まった。
翌日島に駆け付け、警察や関係者にお礼を述べた。皆「よかった、よかった」と喜んでくれた。温かい言葉だった。
今考えると、もし吉田某氏と朝日新聞が煽(あお)ったような「済州島での慰安婦用女性狩り」があったなら、まだ島に沢山の目撃者が存命していたはずのあの時代、とてもあれほど温かく対応してくれなかっただろう。
10月初めのパルパル五輪閉幕時、私たちもその成功を大いに喜ぶ記事を書いた。
しかし90年代以後、慰安婦問題が発火し、韓国の民主化進展と比例するように、「反日」がスポーツ大会とつながった。
02年のサッカー世界選手権の日韓共催は、日韓友好の象徴とも言われた。だが、日本単独開催を望まない韓国が、後から割り込んで共催に持ち込んだ。動機が友好ではなかった。私が大学でそう説明したら、韓国人留学生に「それは違います」と猛反発された。応援も、韓国が勝ち残っていたから韓国で大きく盛り上がり、日本人の一部が便乗しているだけに見えた。
その後、韓国でのサッカー日韓戦では、安重根の肖像画横断幕が再三スタンドに現れた。劉東周さんの言葉は吹っ飛んだ。ロンドン五輪で、島の領有権を主張する紙を掲げた選手の上半身裸姿も、目に残った。野球のイチロー選手が韓国を侮辱したとして、「イチロー必殺Tシャツ」も作られたと聞いた。
そして平昌五輪である。いろいろ問題を抱える中、日韓関係でもすでに、公式HPの日本列島削除地図問題が起きた。
スポーツ大会を恨みや憎悪から解放しよう。
日米韓協力の重要性を認めながら、慰安婦合意の見直し、慰安婦記念日設定、少女像建立に熱を上げる韓国。元慰安婦が聖火リレー最終走者を務めたり、選手村の食事に独島エビが出たりはないだろうが、どんな形の政治・反日示威行為もない大会を完遂することが、この五輪成功の要点だと言いたい。
もう一度思う。パルパルよかったなあと。
(元嘉悦大学教授)






