殉職覚悟の不時着
埼玉県狭山市の入間川河川敷に平成11(1999)年11月22日、航空自衛隊入間基地所属のT33Aジェット練習機が墜落し、乗っていた2人の自衛官が即死する事故が起きた。
この事故では、墜落時、練習機が高圧線を切断したため、東京と埼玉を中心に約80万戸が最長で4時間にわたり停電。そのため、信号機が停止したり、病院では手術が中断する騒ぎとなった。
翌日の新聞各紙は、停電による影響の大きさと、事故を起こした自衛隊への批判を大々的に展開した。
一方、練習機が墜落した場所は人気のない河川敷であり、人口の密集する市街地から離れていたことは不幸中の幸いだった。
これは単なる偶然や奇跡ではない。2人は飛行時間も多く、ベテランパイロットであったにもかかわらず、緊急用の脱出パラシュートが開かずに亡くなったことが分かっている。脱出が間に合わなかったのは、市街地に練習機が落ち、被害が甚大になることをくい止めるため、ギリギリまで必死に機体を操縦していたからだ。このことは交信記録からも明らかとなっている。
12月13日夜、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが同県名護市沖に不時着する事故が起きた。在沖縄米軍トップのニコルソン沖縄地域調整官は記者会見で、事故の原因を説明した上で、「沖縄の人々に謝罪する」と表明した。
だが、事故翌日、安慶田光男沖縄県副知事が事故に対し抗議した際、ニコルソン調整官が「市街地での大惨事を防ぐため、普天間飛行場ではなく、キャンプ・シュワブに進路を変更しての事故だった。搭乗員は表彰にあたいする」と述べた。
この発言を受けて、安慶田副知事は怒りをあらわにし、マスコミもニコルソン調整官の発言を批判する報道をしている。
誤解を恐れずに言わせてもらえれば、今回のオスプレイの搭乗員も、殉職した航空自衛官と同じ思いで操縦していたはずだ。読者の見解は如何に。
(濱口和久)





