人が最終的に求めるもの
理想郷は良心が息づく社会
ホスピタリティバンク研究所代表 浦郷 義郎氏に聞く
存在とは、個物であると同時に関係性の二重性にある。分けることを基本とする近代科学で、人類はかつてないほど便利な社会構築に成功しつつあるが、便利になればなるほど、人は人生の意味や生きがいから遠くなっている現実もある。今日の文明的行き詰まりをどう打破すべきか、ホスピタリティバンク研究所代表の浦郷義郎氏に聞いた。
(聞き手=池永達夫)
ハートがなければ砂漠
限界迎える理性万能主義
「21世紀は心の時代」で、喜びや感動を与えるため、ホスピタリティーが必要不可欠というのが浦郷氏の持論だが、最近の社会をどう見ているのか。

うらごう・よしろう 早稲田大学大学院商学研究科博士課程修了後、1978年チューリッヒ大学留学、1980年亜細亜大学経営学部教授。1986年同大学経営学部長・理事、そのほか学会や行政機関等の役職を経てホスピタリティバンク研究所代表。
成熟した豊かな社会の今は、必需品なき消費社会にいると思う。
食べるもの以外、今日、すぐに買わないと生きていかれないというものはほとんどない。
多くの家で服にしても靴にしても、過剰なほどにタンス在庫や靴箱在庫を抱えている。
そうした中で、人間が最終的に求めるものは何か。
蒸気機関は工業化社会を生み出したが、IT(情報通信技術)は情報化社会を生んだ。顧客情報など、スーパーのバーコードなどで一度に集められる時代になった。誰がどこでいつ、何を購入したなどといったことは、瞬時に集められる。そこまでは情報社会だが、データが集められて体系化され、それが使えるように創造性を付与して価値を生むようにするのは知識社会だ。
情報やデータそのものは、意味がない。データとデータをつないで、点と点をつなぐように線にし、線と線をつないで面にし、面と面をつないで立体化する。これが智恵だと思う。智恵をもって体系化できて、そこに創造性を付与できる人というのは、これからの社会に大きく貢献する人間となるだろう。
しかし、それだけではいずれ限界を迎える。精神とか心、善悪の判断だとかがないと、文明というものはオーバーシュートする。
地球上のどんな未開発の所であろうと、発展している国であろうと宗教のない国はない。未開発の土地でも原始宗教がある。どうして宗教は生まれたのか。
意思を持つ人間というのは、基本的に自由だ。何をしてもいい。とりわけ資本主義社会とか自由主義社会ではそうだ。国家だとか他人に迷惑が掛からなければフリーだ。ただ、それが過ぎてしまうと結果として、公害をもたらしたり、隠蔽(いんぺい)したり、インサイダーだったりとやりたい放題になる。
権力を握れば、ロシアや中国に見られるように、ワンマンになり独裁になり、自らが神になってしまう。それを抑えるのが宗教だろうと思う。それがなかったら行き着くところまで行ってしまう。一人の人間の価値観で社会が支配されるようなことも起こり得る。
ホスピタリティー社会とは、人間の良心が息づいている社会だ。
米国の百貨店ノードストロームのハンドブックに「いかなる状況であっても、あなたの良心に基づいて判断をしてください。そのほかにルールはありません」とあるが、そういったものだ。
論語に「七十にして矩(のり)をこえず」とある。人間70歳ともなれば、心の欲するままに行動しても道理を外れることはないという天地自由人みたいな境地を言う。
そうだ。一つの完成基準だ。
ホスピタリティーの原則は、皆さんの良心に基づいて行動しなさいということだ。
札幌農学校初代教頭のクラーク博士も、「校則不要。ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」と言っている。
あなたたちが紳士淑女になればいいだけの話で、校則で人を縛るような問題じゃない。良識ある行動を取れば、ルールはいらない。
私が提言するホスピタリティー社会は、画一的なものではない。それだと没個性になってしまう。
人間には持って生まれた資質や個性がある。それを消すようなことがあってはならない。
社会というのは石垣と同じだ。レンガで石垣を造れば、小さな地震の一揺れで壊れてしまうかもしれない。
城の石垣が、なぜ強いかというと、大きい石も小さい石も、形もいろいろあるのがガチっと組まれているから強い。
人間も同じで、それぞれ個性があるし、良さも弱点もあるのだが、それぞれの長所を最大限、生かすような社会を構築することが肝要だ。
それを組み合わせるのが匠(たくみ)の仕事だし、大事なところだ。
それがマネージメント力であり、経営者のやる仕事だ。人、モノ、金、それにデータといったものを最適な組み合わせで最強の組織にする。
将来、AI(人工知能)が最適な組み合わせ方の答えを出すのだろうか。
ある程度はできるだろう。しかし、その中に心があるかどうかの問題が残る。
最強はできるかもしれない。しかし、その中に心がなかったら、「砂漠の中に住む人間」になってしまう。
われわれはただ給料だけのために、働いているわけではない。
人間というのは、アリストレスが言うように「社会的動物」だ。家族や仲間など、他者とのつながりの中で生きがいを見いだす存在でもある。
いくら金があっても、家族も友人もいない天涯孤独の中で一生を終えて、幸福と言える人はいないだろう。
しかし、近代経済学の中で、他者のために尽くしたいとか、社会との絆を持ちたいとか、人間が本来持っている「関係性への本能」は非合理なものとして排除される。
富とテクノロジーさえあれば、他者とのつながりなど必要ないとか、ありとあらゆるモノがインターネットを通じて取引・決済できるようになり、メールなどによって簡単に遠隔地の人間とのコミュニケーションが取れるようになった現在、他人との直接的な触れ合いやつながりを大切にすることなどは非効率で、感傷的なことだといった一種の「理性万能主義」が蔓延しているのが、今のグローバル資本主義ではないだろうか。
しかし、人間というのは非合理的存在だ。
時に「自己犠牲」の精神を発揮する。家族や同胞を守るため、命を投げ出す人は古来、少なくない。不幸な人や貧しい人のために行動することもある。すべての人間が打算や個人的利益のためだけに生きているわけではない。