習体制と精日と溥傑・浩夫妻

若者はどう反応する

山田 寛

 中国に習近平絶対体制が確立され、日中関係はどうなるか。昨年以来、「日中関係改善ムード」が言われているが、あくまで中国の戦術や都合による改善ムードだ。「抗日救国」が中国共産党の歴史的金看板なら、習近平的党支配強化で「反日」の根本がゆるみっこない。反日教育を強めながら、真の関係改善はない。

 それに関連し注目したいと思うことが二つある。一つは、最近中国の若者の間に現れているという「精日」(精神的日本人)。精神的に自分を日本人と同一視し、日本の慣習や規範に従って行動する者たちだという。波紋を広げたのは、2月に南京市の山中の日中戦争遺跡で、旧日本軍服を着て玩具の軍刀を持ち日章旗を掲げて写真を撮り、ネット投稿した2人の青年だった。当然非難を浴び、2人は警察に15日間拘禁され、王毅外相は記者会見で「中国人のクズ」と吐き捨てた。

 「彼らの出現は、中国政府の反日教育の部分的失敗を意味する」(中国問題専門家の石平氏。産経新聞)とも言われる。言論統制を強める習政権は、断固取り締まって行くだろうが、精日側はどうするか。最初から虎の尾を踏む挑発的行動でなく、より慎重で底深い活動が出て来るか注視したい。

 もう一つは愛新覚羅溥傑・浩(ひろ)夫妻だ。

 1937年、嵯峨侯爵家令嬢の浩さんは、清朝最後の皇帝で関東軍の策謀で満州国皇帝となった溥儀の弟、溥傑氏と政略結婚させられた。大戦が終わり満州国は崩壊、溥儀、溥傑兄弟は捕らえられ、共産党の新中国で戦犯・再教育生活を送る。浩さんは次女を連れ16カ月の流浪と拘束の後、日本に引き揚げた。その後長女が不慮の死を遂げる悲劇もあり、「流転の王妃」と呼ばれた浩さんが、やっと北京で溥傑氏と結婚生活を再開できたのは、61年のことだった。文化大革命で紅衛兵に襲撃されたりもしたが、72年の日中国交正常化後、夫妻は日中友好の懸け橋として活躍した。

 浩さんは87年、溥傑氏は94年に亡くなった。次女の嫮生(こせい、現姓福永)さんを小学校時代から知っていた私は、88年に夫妻の話を取材し、何よりその愛情物語に引き付けられた。

 強いられた結婚でも、見合いの席の相互一目ぼれを生涯続けた夫婦だった。

 浩さんの遺骨は長女と共に、下関の中山神社の境内に新設された小さな愛新覚羅社に納められ、恋愛・縁結びの神として知られることとなった。一時は中山神社の参拝客が10倍にも増えたとか。社には「愛を下さい」などと書かれた絵馬が沢山下がっていた。

 政略結婚の結末が恋愛の神様。「そら見ろ。人間は強いんだ」。そう叫びたくなった。

 溥傑氏没後、夫妻と娘の遺骨は日本と中国(散骨)に分骨された。先日、久しぶりに愛新覚羅社を再訪した。恋愛祈願の絵馬がなお目についた。

 嫮生さんの話では、夫妻の件で最近中国でも動きが出ている。浩さんが昔日本で出版した宮廷料理レシピ集「食在宮廷」の翻訳本が再出版された。そして特に、米国帰りの中国人女性映画監督が、「中国の若者たちに、私利私欲なく誠実に生きた夫妻の生き様をぜひ伝えたい」と言い、2年がかりで映画を製作しようと、いま脚本を書いている。

 私利私欲のない人生を若い人に示すことは、汚職があふれる中国社会の清掃を掲げる習近平政策の方向とも合致するはずだが、とにかく反日教育や言論統制を乗り越えて若者の心を捉える映画を作ってほしい。純粋な夫婦愛、純粋な日中友好への願いに感動した中国の若者が、日本に来て下関に立ち寄る。そんな光景を見たいと思う。

(元嘉悦大学教授)