サウジ国王来日の意味
日本を「協力国」に指名
石油依存の経済構造改善へ
ある意味で日本と最も近い国の国王が46年ぶりに来日した。
3月12日から15日までの4日間にわたり訪日した一行は物見遊山とは程遠いサウジアラビア国の将来を計る実務的な旅人としての印象を日本国民に与えた。昨年9月に注目の副皇太子兼国防大臣のムハンマド・イブン・サルマン・アル・サゥードが13機の飛行機に分乗した500人からなる大集団を率いて訪日したが、今回の父王訪問はその倍の約1000人以上からなる超大集団で世間を驚かした。
サウジアラビアの国王が日本を訪問したのは今から約半世紀前のことであった。1971年にサウジアラビア第3代国王の故ファイサル・イブン・アブドゥル・アジィーズ・アル・サゥード国王が日本を訪問したのはまだ石油ショック以前の昭和の御代であった。この時の日本はアラビアンナイトの王様の来日という印象を持って国王を迎えたが、あくまでも親善を目的としたもので「国賓」として国王は迎えられた。しかし今回は「公式実務訪問賓客」としてサルマン国王は迎えられ、故ファイサル国王と異なる来日であり、物見遊山を目したものではなかった。
一行がサウジアラビアを離れたのは先月末、マレーシア、インドネシア、ブルネイと旅をし、日本を経て中国へと旅を重ね、約1カ月に及ぶ長旅を81歳の国王が先導するという歴史的なものであった。日本ではその旅行団の巨大さに驚かされ、と同時に彼らの爆買いに期待したが、その期待は見事に裏切られた。彼らは実務的な会談を各界と持ち、「公式実務訪問賓客」の名が示す通りの「実務訪問」であった。この結果、両国は新たな「両国共存の時代」に入ったことが宣せられ、これまで石油というステージで動いていた日・サウジ関係が新たな関係に入ったことが示された。
老齢の国王が1000人以上の関係者を率いて約1カ月にわたる長旅をしてまで日本に乗り込んで来たのは、王国の将来を思う時、大きな課題が在していると感じ、胸中に生まれた憂いを解消したいとの思いによるもので、次世代へ王国のバトンを安心して引き渡したいとの強い意志によるものである。そしてその協力者として日本を選択したということ表現するための訪日であったと言える。
サウジアラビアは三つの顔を持つ王国である。石油大国としての顔、イスラーム教国であるという顔、そして砂漠的風土の特長を強く表現し高い名誉を重んじる部族意識の世界という異なった顔がこの国の印象を構成している。イスラーム教では聖と俗を区別しないことを一つの特長としているが「メッカ」と「マディーナ」の二つの町はその歴史上の関係から「聖都」として特別視され、この国の王の名称を「二つの聖都の守護者」として表現し、国王の務めの第一としている。それ故、多くの人はサウジアラビアをイスラーム教の大本山として紹介するが、サウジアラビアのイスラームはスンニー派のハンバル派に属しサラフィーヤ運動を進めることを本義とするイスラーム教集団であり、サウジアラビアが他の宗派集団の頂点にあるという判断は間違っている。
しかし巡礼の環境を整備し、聖都を守るのがサウジアラビアに課せられた責任であるという考えは全てのイスラーム教徒の合意するところである。その意味で「二つの聖都の守護者」という呼称はイスラーム世界の納得する範囲にあり、サウジアラビアの王はその責任を強く自覚している。このためにも石油環境の整備は重要な問題であるが今日の世界では厳しい環境を王国に与え、王国の責任に疑問を抱かせるような環境の出現が憂いの元を形成している。
加えて砂漠という風土的環境はこの地の部族世界を生みだし、非生産的な感性を有する人間をつくり上げた。このため、その分を補う生活の知恵が生まれ、能力を持つ者に生産を委託するという社会をつくり上げた。こうした結果、総人口約3500万の内に外国人労働者が約1000万人を占め、非ワッハーブ派集団とともにイスラーム的恩恵から外れた集団が存在しそれが社会格差を生み出している。
フランス、ベルギーを主として起きた自爆型のテロは、この社会格差から生まれた結果であるとする論を正論とするならば、サウジアラビアにはこの種のテロリストが出現する環境が整いつつあると懸念される。この問題の解消には社会格差の是正が重要な課題となるが、そのために発想されたのが石油をベースとする経済構造の改善である。こうして「ビジョン2030」計画が生まれ、その一端の協力国として日本が指名された。サルマン国王の日本訪問にはそのような決意の中で企画され実行されたものである。それ故、日本の責任は重く、それを成さなければ部族の名誉を傷つけることになり、対日不信の歴史が始まることは避けられない。
(あつみ・けんじ)