「不透明」だったアラブの春
革命と捉え分析を誤る
反政府勢力に正義論が先行
春の嵐のようにアラブの春は通り過ぎた。今や春雷の音も聞こえない。アラブ、中東はおろか世界を興奮させた革命という言葉は色あせ、犠牲になった人々の墓標が残された。組織も指導者も不在な運動は革命とはほど遠く騒乱とも言うべきものであった。国民が望んだ生活環境改革の声は沙漠の彼方に消え、意味のない破壊と魂の残骸だけが記憶の中で沙漠に現れる蜃気楼のように消えたり現れたりし、未だ硝煙と血の匂いが消えることはない。
3年に及んだ騒乱は慢性化し将来の希望も見出せずにいた既存政権に活を入れ、側近が待ち望んでいた指導者交代を実現させたことは皮肉な結果であった。チュニジアのベン・アリ、エジプトのムバーラク、イエーメンのサーレハそしてリビアのカダフィの内閣側近たちは、指導者としての体力も知力も気力も失った指導者の交代を願っていた時、春雷が天の声の如く鳴り響き彼らの望みは叶(かな)えられた。しかし、新しい指導者が国民によって選ばれたが政権自体ほとんど変化なく、行政・司法・治安・軍の各組織は旧体制のまま3年が過ぎ4年目を迎えた。
その間、唯一の成果は騒乱の中で行われた憲法改正であった。しかし、民主主義と自由なるものが選挙という形で表現されるものであるとすれば、大統領選挙、国会選挙、そして憲法改正等の一連の動きは民主時代の到来と言えたであろう。だが、多くの国民が待ち望んでいた生活環境の改善、経済環境の再建はならないばかりか先代大統領時代よりも悪化し、自由や民主主義は貧困の形容詞となった。
中東地域の経済に大きな影響を与えていたヨーロッパ経済が不況から脱せなかったという不運も重なったが、国家経済の再建、運営に何の智恵と計画も持っていなかった宗教的色彩の強い集団の登場によって経済環境は騒乱以前よりも悪化するという現象がもたらされた。チュニジア、エジプトでは絶望した若者の自殺が続発し、治安状況の悪化が続く中で外資の引き揚げが始まり、生産が低下し、流通システムの混乱などの諸要因が重なり、経済環境の悪化は重複して止まることがなかった。
また、リビア、イエーメン、シリアでは、部族的世界から脱することができずに不可解な殺し合いを続け、「アラブの春」は地球の端に追いやられ「不透明な世界」として認識され始めた。
こうした事態を前にして「アラブの春」と呼ばれた騒乱を民主革命として評価し、正義に満ちた反政府運動と認識し、大衆革命であるとして歓迎したことが間違いであったと世界は悟った。思想もなく指導者不在の「アラブの春」を「革命」という言葉で表現した最初の段階で、これらアラブ諸国の動向は暗闇の中に置かれたのである。
「革命」という視点で捉えられた「アラブの春」は、実は革命とはほど遠い単なる政治的騒乱であったという現実的認識が定まった時、これら世界の状況が3年に渡って不透明であったことを人々は認識した。
しかし未だシリア、リビア、イエーメン情勢を伝える見解は「革命」の視点から外れることなくそれ故の混乱が続いている。現実を直視することを避けイメージされた世界観での視点は、正確な状況を判断することの重要性から考えて非常に危険である。
今「アラブの春」の不透明性が問われているが、それは正議論が先行し現実が無視された結果である。情勢を見るにおいて善悪の判断は必要ではなく現実に起きていることを全方位的に把握することが重要である。中東は日本の生命線であると言えるほど重要な世界である。それゆえ正しい情勢を把握する必要がある。
この意味からも今回の騒乱を改めて見直す必要が今ある。分析の外に置かれた騒乱に参加してない国民の存在を視野に置き、改めて情勢分析を行う必要がある。前大統領追放のあと行われた新大統領選挙の投票率からも分かるように、国民の半分がこの騒乱の外にいた事実に関心を払わなければならない。「アラブの春」とは趣を異にするシリアの場合でも、国民の50%近くがアサド・バース党政権を支持しているという現実が無視されている。このため正議論で包まれた反政府運動の動きのみに視点が置かれ、現状を正しく見ることはできなかった。
今年になり、「ダマスカス居住者の生活」が報道されたが、それはこれまでのシリアからの報道では理解できないものであった。平和な時と変わらない日常生活をするダマスカス住民を見たとき、多くの人がその情景に戸惑いを見せた。このことは興味深いものであったことを改めて考える必要がある。
シリア情勢の不透明な点は、ダマスカス街道の西側の地帯に居住するシリア国民の存在が無視されていた結果であり、反政府勢力を正義の目から外して見ることの重要性を示唆している。先入観を捨て、よく吟味しその特徴を表現する言葉を選ぶことが、アラブの春雷が我々に残していった智恵であった。
(あつみ・けんじ)