ユダヤ出自のペルー大統領
独からの亡命者の子孫
各界に傑出した人材を輩出
7月末にペルー共和国大統領に就任したペドロ・クチンスキー(1938~)。その父親は著名な病理学者で、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、1936年にペルーに移住した亡命ユダヤ系であった。父方を通じ、ユダヤの血脈を受け継ぐクチンスキーは「ユダヤ出自の大統領」として、欧米のユダヤ系メディアから注目されているのだ。
彼自身はキリスト教の信徒として育てられたが、その職歴からは「ユダヤ的環境」の中でキャリア形成を行った人物であることが分かるのだ。61年、最初の就職先、世界銀行にエコノミストとして採用される。同行におけるユダヤ系の存在感は大きく、出世の階段を上るにはユダヤ人脈に連なる者が有利と噂(うわさ)される職場だ。彼はここで中南米担当の主任エコノミストに昇進している。
70年代にはニューヨークに本拠を置く、老舗のユダヤ系投資銀行、クーン・ローブに転職。ここで共同出資経営者へと出世する。83年から92年には同じく米ウォール街の投資銀行の雄、ファースト・ボストンで共同会長にまで上り詰める。彼は自身のバックボーンを「投資銀行家」と評しているが、この職種こそ、ユダヤ系エリートにとり典型的な花形職種であったのである。
次に我々はクチンスキー家のルーツとなったペルー・ユダヤ社会についてみてみよう。ペルー国民2500万人の中で、ユダヤ人はわずか2000人。総人口の0・008%にすぎない。多くは30年代、ナチス・ドイツ支配下から逃れ来た亡命ユダヤ系の子孫だ。彼らはこの国で最良の教育を受け、金融、メディア、医師、法曹の分野で傑出した人材を輩出してきた。
ペルー・ユダヤ人口が最大値5500人に達したのは60年代のことであった。その後、減少が続いた最大の理由は80年代、極左テロ組織が引き起こした劇的な治安悪化だ。「毛沢東主義」を標榜(ひょうぼう)する「センデロ・ルミノソ」「革命運動トゥパク・アマル」といった極左は富裕層児童を狙った身代金目的の誘拐事件を繰り返し、この国を内戦状態へと追い込んでいったのだ。80年代末までに「センデロ・ルミノソ」だけで6万5000人のペルー人を殺害したと推定される。多くは富裕層で、ユダヤ系もその一員として狙われた。首都リマにあるペルー唯一のユダヤ人学校が幾度となく爆破の脅迫を受けたのもこの頃であった。
身の危険を感じたユダヤ人たちは米・カナダ・イスラエルへ続々と脱出していった。80年代から90年代初頭にかけて、ペルー・ユダヤ人の3割が出国してしまったのだ。もちろん、この出国ブームは富裕層全体を巻き込むものであった。
国政において、ペルー・ユダヤ人が大きな存在感を示すのはアルベルト・フジモリ政権(90~2000年)においてであった。
「独裁や汚職」といった負のイメージが強いフジモリ政権だが、極左テロ組織の壊滅に成功し、この国を内戦状態から救った功績は評価されてしかるべきであろう。フジモリ政権のユダヤ系閣僚は大統領の右腕として、首相・経済相を務めたエフライン・ゴールドバーグ、農相を務めたホセ・クリンペルだ。
またフジモリ派の国会議員にして、ペルー最大の発行部数を誇るタブロイド紙新聞社の社主を兼ねるユダヤ系のモイセース・ウルフェンソンはメディア業界におけるフジモリ大統領の代弁者の役割を果たしてきた。同じくユダヤ系メディア王のウィンテル兄弟(サミュエルとメンデル)は所有するテレビ局、「フリクェンシア・ラティーナ」を通じ、フジモリ政権に好都合な政治宣伝を放映したため、92年には極左テロ組織による社屋爆破の被害を受けている。
続くアレハンドロ・トレド大統領(2001~06年)はペルー史上初の先住民出身大統領でありながら、穏健な政策故に期待されたが、見るべき実績を上げられなかった。彼の副大統領ダビッド・ワイスマン、産業相のダビッド・リモアは共にユダヤ人だった。
ペルー政界におけるこうしたユダヤ系の進出を背景に、今回、「ユダヤ出自の大統領」が誕生した訳である。クチンスキーが6月の大統領選挙で下した対立候補は日系3世のケイコ・フジモリであった。彼女は父に続く2人目の日系人大統領にはなれなかったのだ。
彼女が党首を務める人民勢力党は国会で過半数を占めており、クチンスキーの今後の政権運営を難しくするだろう。けれど、両者には「中道右派で経済政策にもあまり違いがない」という共通基盤がある。前回、11年の大統領選挙では、両者は社会主義者オジャンタ・ウマラの当選を阻もうと水面下で手を組んだ実績もある。今回のペルー新大統領誕生がラテンアメリカの政治潮流全体の中で、穏健な中道右派勢力伸張と反米左派勢力後退を加速させてゆく契機となるのか。今後の行方に注目したい。
(さとう・ただゆき)






