兵役免除に揺れるイスラエル

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

違憲判決に戸惑う政権
宗教政党と世俗派の板挟み

 9月12日、イスラエル最高裁はユダヤ教超正統派の信徒もイスラエル市民権を持つ他のユダヤ人同様に兵役に服さねばならぬとの判決を下した。超正統派の兵役免除を成文化した現行の時限立法は基本法(憲法に相当)に定めた平等権に反しており、「違憲」との判断を下したのだ。そして平等の原則を満たす新たな法律を制定するよう1年間の猶予を議会と政府に与えたのだ。

 超正統派とはユダヤ教戒律を最も厳格に遵守(じゅんしゅ)する宗派だ。その信徒は一般の人々はおろか他のユダヤ人とも交流を望まぬ孤立主義的生き方を貫く人々だ。

 イスラエルには85万人もの超正統派がおり、既に人口の10%に達している。特筆すべきは同派の成人男性の7割がフルタイムの神学生として40歳過ぎまで経典研究に専念している点だ。妻たちはそうした夫を支えることを至上の名誉と考え、育児、家事、パート労働での収入稼ぎを一人でこなしている。とはいえ、政府の手厚い助成金が頼りなのだ。所得はずば抜けて低く、「貧しいユダヤ人」とは彼らを示す言葉である。全イスラエル国民の5分の1に達する貧困ライン以下で暮らす人々の半分を彼らが占めている。

 イスラエル社会での評判は芳しくない。

 「政府の施しで暮らす兵役逃れ」という理由からだ。イスラエルではパレスチナ系を中心とする非ユダヤ市民も兵役から免除されている。しかし、その免除の理由は「ユダヤ人でない者は信用できない。信用できぬ者に国防を委ねて良いのか」という全く別の理由からなのだ。

 徴兵免除制度の起源は建国直後の1949年に遡(さかのぼ)る。ホロコーストにより絶滅寸前に追い込まれたユダヤ教神学校の伝統復活を切望する初代首相ベングリオンが、当時、イスラエルに逃れ来た400人の神学生に兵役免除の特典を与え、伝統復活を託したからだ。わずかだった神学生も今日では徴兵対象年齢に占める人数だけでも数万人に膨れ上がってしまった。早婚で多産を神の御旨と考え、一切の避妊を行わぬ超正統派の出生率は極めて高く、平均7人の子供をつくるからだ。結果、国民負担を果たしていないという不公平感が広まり、イスラエル社会の分断を生み出す一因となってしまったわけだ。

 周囲を敵に囲まれた小国イスラエルは国民皆兵の原則を採らねば国防が危うい。こうした事情から18歳以上の男女に兵役を課し続ける世界の先進国の中でも特異な国となったわけだ。18歳以上の男子は3年間の現役徴兵年限に服した後も、原則として55歳まで予備役として年1カ月の応召訓練義務が課されているのだ。

 この体制を維持するために負担の公平化、兵役逃れへの荒療治を求める国民の声は根強い。その中心勢力が党首ラピッドに率いられた中道世俗派の野党イエッシュ・アティド(「未来がある」の意味)だ。宗教色が薄い世俗派ユダヤ人が宗教的理由で特定のセクトが優遇されている現状に強く反発しているわけだ。冒頭の最高裁判決もこうした世論を背景に下されたと言えよう。

 一方、「兵役逃れ」の非難に対し超正統派はこう反論する。「自分たちが行う護国の祈りは兵役以上の貢献を果たしている。自分たちの祈りはミサイルに匹敵する力がある。自分たちが祈るから神はイスラエルを守ってくださるのだ」と。宗教心を持たぬ者にとっては見え透いた言い訳としか聞こえぬが、こうした主張を堂々と行えるのも、超正統派がイスラエル政治における大票田として隠然たる力を有しているからだ。

 彼らの利害を代弁する宗教政党は二つある。二つの政党は現ネタニヤフ政権を含め、過去30年以上にわたり大半の連立政権に加わり、首相選びに大きな力を振るってきた。それ故に特典と助成金を手に入れることができたのだ。その一つシャスの党首で連立政権内相のデリは「今回の判決はわれわれが受け継いできた過去の伝統から逸脱したものである。われわれの立場は揺るぎなく、判決を覆すためには何でもやる」と声明し、神学生たちに経典研究を継続するよう励ましている。

 連立の盟主ネタニヤフが神学生の特典を脅かす挙に出れば、次の選挙で手痛いしっぺ返しを与えるというメッセージでもある。小党乱立のイスラエル政界故に単独組閣が困難なネタニヤフとしては支持基盤の一つ宗教政党の離反はぜひとも食い止めねばならぬ事態なのだ。

 次にイスラエル国防軍だが神学生の受け入れには消極的である。軍務中の祈祷(きとう)や食事にまつわる厳格な戒律を解決することは軍にとり大きな負担であり、また社会経験が乏しい神学生は「使えぬ兵士」と見なされているからだ。こうした困難を顧みず、ネタニヤフが徴兵を強行する見通しについては疑問視せざるを得ないだろう。さりとて最高裁判決を先延ばしにして中道世俗派の不満を放置しておくことも得策ではない。ネタニヤフにとって今回の「兵役免除取り消し」判決は進退両難のジレンマと言えよう。

(さとう・ただゆき)