「四流」ですらない今の韓国の政治


韓国紙セゲイルボ

道徳性捨て陣営論理を至高の価値に

 「四流政治」。24年前の言葉だ。李健煕(イゴニ)サムスン会長が「企業は二流、官僚組織は三流、政治は四流」といった。金泳三「文民政府」の時だった。あれこれ機嫌をうかがうことも多い起業家が、どうしてこんなことを言ったのか。世の中の状況があまりにも寒心に堪えなかっただめだ。

曺国氏

9日、ソウル近郊果川市で、法相就任に際し演説する曺国氏(AFP時事)

 金泳三政権は、金融実名制導入を除き、何一つまともなことをしなかった。最後には大統領の息子まで不正事件に巻き込まれた。韓国銀行の職員も「金融改革反対」を叫びながら、鉢巻き姿で街頭に出た。1997年の国家不渡りはその結果だ。四流政治がもたらした惨劇だった。

 今はどうか。さらにひどい状況だ。陣営論理を至高の価値とした政治はタリバン原理主義者を見るようだ。道徳性まで捨てている。

 曺国法務部長官と彼の家族をめぐる疑惑は山のように積もっている。私募ファンドと大学をめぐる疑惑は剥がしても剥がしても玉ネギのように出てくる。検察は曺氏の妻を起訴し、ファンド関係者2人を拘束。首謀者はフィリピンへ逃亡した。

 そのような曺国氏を文在寅大統領は法務部長官に任命した。任命状授与で「国民に申し訳ない」と言った。では尋ねるがなぜ「申し訳ない」ことをするのか。家族に犯罪容疑者を持つ人物を法執行の長にして法が正しく立つのか。大統領は法を守護しようとするのか、曺国氏を守ろうというのか。

 大統領府と与党は全てのものを「フェイクニュース」だと責めたてる。犯罪疑惑を調査する検察に「狂って暴れるオオカミ」「国を騒がす行為」だと呪いのような非難を浴びせる。だが、犯罪容疑者を家族にもつ者が改革を叫ぶということ自体がコメディーではないのか。

 検察改革がそんなに重大な国家的課題なのか。本質は検察の政治的中立性の確保なのに、改革と称しながら検察を政治権力の走狗にしようとする「不道徳な」思惑が背後に見え隠れする。

 緊急対策を要する国家的課題が山積している。崩れる経済はその一つだ。検察改革はむしろ些細な問題だ。低成長、失業、輸出・投資・消費の減少…。全てのものが外国為替危機以後、最悪だ。「殺伐とした経済の外圧」は90年代中盤よりも厳しい。

 理念に拘泥しているためだろうか、こうした破局的な状況でも政府は対岸の火事を見ているようだ。国を破産させた金泳三政府はそれでも頭を下げて、「経済を生かそう」と叫んだが、今は全く違う。

 孔子は言った。「民、信なくば立たず」と。今の政治は四流ですらない。「信頼を失った恥知らずな政治」と呼ぶべきではないだろうか。その行きつく先は何だろうか。

(姜浩遠論説委員、9月10日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。

ポイント解説

曺国批判で足りない視点

 “疑惑のたまねぎ”と言われている曺国氏の法相就任が強行された。韓国では賛否が相半ばしている。セゲイルボはじめ保守系メディアはこぞって反対だ。文在寅政権の中央突破に目を丸くしているようだ。
 文政権はこの人事に限らず、大方の見方を裏切って“逆の”選択をしてきた。日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)終了の決定もその一つだ。

 もう甘い希望的観測は捨て去った方がいいかもしれない。文政権のやり方は政治的決断とは程遠い。政治とは妥協の業だが、姜論説委員がいうように「タリバン」のように一切聞く耳を持たずに、一つの確固とした信念の下に突き進んでいる。

 その目指すところが善ければ、一筋の道を行く潔さは称賛されるだろうが、どうもそうではない。韓国民のみならず日米など周辺国も危惧を隠さない。曺国法相就任は“終わりの始まり”を予感させる。

 韓国紙は数多くの疑惑を糾弾するが、問題はそこではない。「江南左派」と言われる曺国氏の思想傾向とその政治が目指す国家像だ。思想的信念に基づく時、事実や合理性は無視される。曺国人事が示したものだ。

(岩崎 哲)