五輪でかわいさを評価される現実
選手の能力と努力に焦点を
変わっていなかった。平昌冬季五輪に出場した女子選手らの容貌は今回も相変らず、話題の種にされた。
日本の女子カーリング選手は女優の朴ボヨンに似たかわいい容貌で人気を呼び、普段“スキー美女対決”に集まっていた関心を引き寄せた。
ある日刊紙記者は女子ショートトラックのキム・アラン選手の容貌を褒めようと読者に求めた。冗談だと思ったが、実際に「かわいいという言葉がいやではないでしょう?」との質問を選手に投げ掛けていた。世界最上の技量を誇って堂々とメダルを首に掛けた選手まで“かわいさ”を評価されなければならない現実に対する問題意識は感じられなかった。
優れた身体的能力と強靭(きょうじん)な精神力を競うスポーツ分野でも、女性選手らには“美貌”や“女性性”を強調する別称が付く。“美女フィギュアスター”は言うまでもなく、“妖精”とか“微笑天使”のような容貌と関連した愛称をよく見る。五輪選手はかわいい必要もなく、もともと容姿への評価を受けるべき対象ではない。女性選手にほとんど例外なく適用される容貌評価は彼女らを運動選手や一つの人格体として見るより、“かわいくなければ女でない”という旧時代的フレームの中に閉じ込める悪習だ。
アスリートだけではない。勇気を出して世間の前に姿を表した「ミー・トゥー」運動告発者でさえ容貌評価を避けるのが難しい。韓国のミー・トゥー運動に本格的に火を付けた徐志賢(ソジヒョン)検事に関する記事でも、「かわいい」「整形が成功した?」等の顔評価のコメントが続いた。事件の本質とは関係ない“第三者による2次加害”だ。
3月8日は国際女性デーだ。ハリウッドから始まった「ミー・トゥー」運動は太平洋を越えて韓国でも活発に展開している。社会各界各層でこれまで声を出すことができず、一人で涙をのんだ女性たちが世の中に出てきている今でも、われわれの側にはまだ本人が怪物とは自覚していない“怪物”があふれ出ている。
直接的で物理的な加害をしたから怪物なのではない。女性を同等な人格体と見なかったり、性的対象化するすべての見解もやはり長らく女性を困らせてきた“怪物”のまた別の姿だ。
意図しようがしまいが、能力や努力とは関係がなく、女性を容貌評価の対象に転落させることは、やはり“怪物”の視線であることを忘れてはならない。
(朴ジウォン編集部記者、3月5日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。