“文化の力”こそ真の国力
韓国紙セゲイルボ
本を読む国民には未来がある
韓国動乱勃発66周年になった。休戦の後、大韓民国は廃虚の中から目覚ましい経済成長を遂げた。昨年、国内総生産(GDP)世界11位の先進国になった。
国力とは何だろうか。大韓民国は2016年度国防費を38兆ウォンと策定した。巨額の国防費で武装した最先端戦闘機と武器が国力であろうか。GDPであろうか。資本力と国防力でなければ、ひょっとして民主主義的市民意識が国力であろうか。
金九(キムグ)は「白凡逸誌」(1949年)の「私が望む我が国」で「われわれの富力は生活を豊にするに値し、強力は他人の侵略を防ぐほどには足りる。ただ限りなく持ちたいのは高い文化の力だ」と言った。
真の文化力に対して考える。ドラマというドラマはみな見ながらも、本は1年に1冊読むかどうかという大韓民国国民の読書率に対して考える。武士道精神を誇る日本国民が電車で文庫本を読んでいる時、ソンビ(学識礼節のある人)の伝統を云々(うんぬん)する大韓民国国民が電車の中でスマートフォンに没頭している風景に対して考える。
就職率だけを大学競争力の尺度とし、国文学科を含む語文系列学科を閉じる教育の文化的水準に対して考える。1年に韓国文学本1冊も読まずに、韓国からノーベル文学賞受賞者がなぜ出ないかと不平を言う人に対して考える。
国力とは何か。“文化の力”こそ国力ではないか。仏国寺の「釈迦塔」は中国人観光客の訪問数と関係なく、世界人類に誇るべきものだ。感動的な詩一節がある詩集なら、図書館の片隅で眠っているとしても意味がある。中国観光客のためにホテルが建てられているこの瞬間にも、数多くの書店と出版社が門を閉めている。
全てのものが経済的付加価値、付加価値の再生産と拡大に没頭するこの時代の野蛮な尺度が恐ろしい。目標に向かって走る速度をしばらく落として自身と周辺の人生を見回す力。それは読書の力から出ないだろうか。
電車の中に小さい本箱を設置してみるのはどうだろうか。電車に乗りながら、本を取り出して読むのだ。そして降りる時、また本棚に戻しておく運動。本が盗まれないだろうかと心配することはない。現代人は本を持っていく程、価値があるとは思っていない。
2004年のインドネシア・アチェを襲った津波。世界各国から救援物資と救護資金が送られてきた。半年で1億㌦が集まった。救援物資の中に本があったという。インドネシア国民は本を読みながら、真に温かい慰労を得たという。
本を読む国民、地下鉄から始めよう。本読む国民には未来がある。真の国力が何か今一度考える。
(金容嬉(キムヨンヒ)平沢大教授・小説家、6月25日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。