武寧王陵と建業人


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

三国時代

 三国時代(4世紀半ば以降の高句麗・百済・新羅並存時代)の建築物のうち最も多く残っているのは王と貴族の墓だ。遺物・遺跡が少ない百済の場合、墓こそが百済人の暮らしを垣間見ることができる貴重な史料だ。高句麗系統の移住民が建てた百済は漢城(現在のソウル)時代に高句麗の陵墓様式を継承してピラミッド形式(方形階段式)の石塚が造られたが、漢江流域を高句麗に奪われて熊津(現在の公州)に遷都した後は、レンガ塼造りの墓に変わった。

 1971年、忠清南道公州の宋山里(旧・松山里)で発掘された武寧王陵が代表的なレンガ造りの墓だ。墓が閉鎖されて1442年ぶりに、盗掘されていない完全な状態で発掘された。墓の内部の誌石に刻まれた「百済斯麻王」という文字によって武寧王陵であることが分かった。約5000点(通常4600点とされる)の遺物がそろって出土した。白磁の碗など中国から輸入した磁器なども発見された。百済史研究が進展する転機となった。

 昨日、国立扶余文化財研究所が武寧王陵と王陵園(宋山里古墳群)29号墳の入り口を封鎖するために使った蓮華文レンガの側面に「造此是建業人也(これを造ったのは建業人だ)」との文字を確認したと発表した。建業(後に建康)は今の南京だ。5~6世紀の中国南朝の都だった。中国の三国時代に、呉の孫権がここを都にした後、建業という名が生まれた。その後、東晋・宋・斉・梁・陳まで、ここに都をおいて目覚ましい貴族文化を花咲かせた。六朝古都とも呼ばれる。

 以前、29号墳に近い6号墳では「梁官瓦為師矣(梁の官窯の瓦を手本にした)」という文字が刻まれたレンガが発見されたことがある。今回確認された文字は百済レンガ墓が(中国)南朝の影響を受けていたことを立証するものと評価される。中国南朝の技術者たちがレンガ造りだけでなく、レンガ造りの墓の築造にも加わっていたかどうかは、断定し難いという。

 武寧王陵の棺に使われた木は日本から持ってきた高野槙(コウヤマキ)だ。武寧王時代に百済が中国や日本と活発に交流していたことが分かる。国勢の委縮による政局不安定など、総体的な難局を打開するため、地理的に近い中国の南朝と長く交流してきた日本との関係を強化することに力を入れたわけだ。武寧王陵が百済史のタイムカプセルであることを物語っている。

 (1月28日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。

(サムネイル画像:Wikipediaより)