二度と“五輪ボイコット”と主張するな


韓国紙セゲイルボ

選手の汗と涙が国民を慰める

 東京五輪が終わって1週間過ぎたが余韻はまだ消えていない。“神弓”の系譜を継ぐアーチェリー3冠王アン・サン、走り高跳びで韓国新記録を樹立した禹相赫、最後まで闘魂を発揮して感動を与えた女子バレーボールチームなど太極戦士(国旗の太極旗を付けた国家代表選手のこと)たちが作った場面一つ一つを忘れることができない。これまで磨き上げた技量を見るだけでも、つかの間“コロナ憂鬱(ゆううつ)感”を忘れることができた。

東京五輪が終わり、表示された「ARIGATO」の文字=8日、国立競技場

 ところが、危うく私たちは太極戦士が与えてくれる楽しみを享受できないところだった。東京五輪・パラリンピック組織委員会がホームページの地図に独島(竹島)を自国領と表記したことで、与党の次期大統領候補者たちを中心に“五輪ボイコット”の主張が競うように飛び出してきたためだ。

 「明確に歴史的記録を残すことも兼ねて、ボイコットを検討しなければならない」(李在明(イジェミョン))、「日本が是正を拒否するならば五輪ボイコットなど可能なあらゆる手段で断固として対処しなければならない」(李洛淵(イナギョン))、「日本が最後まで(地図修正を)拒否するなら、五輪不参加など政府が出来るあらゆる手段を総動員しなければならない」(丁世均(チョンセギュン))。

 韓日関係も心配になったが、選手たちがひょっとして傷つかないか心配だった。共に民主党の候補者たちは支持層を意識して対日強硬発言をずばずば言い放った。総選挙で韓日戦フレームを持ち出して効果を上げると、今回も反日感情を極大化させて内部固めだけを狙った。

 幸い五輪ボイコットはなかったが、「なにげなく投げた石にカエルは当たって死ぬ」と言うように、5年間鍛錬した選手や関係者たちは政治家の一言にはらはらしながら五輪を準備しなければならなかった。

 ボイコット検討を主張した李在明候補は閉幕後、「世の中クールなMZ世代が作った五輪、1等だけを記憶する風習を変えた」と良い結果だけを摘まみ食いした。李洛淵候補も「五輪選手たち皆が私たちの胸の中ではチャンピオン」と同調し、丁候補も「選手たちが流した汗と涙は国民全ての感動であり自負心」と絶賛した。開幕前ボイコット云々(うんぬん)した態度は影も形もなかった。彼らの主張通り本当に五輪をボイコットしたとすれば、選手たちが描き出した情熱の瞬間を私たちは見逃しただろう。

 スポーツに与野党はない。太極マークを付けて舞台に立つ瞬間、国民は声を一つに選手たちを応援する。コロナに疲れた国民を慰めたのは政治家の言葉でなく選手たちの汗と涙だった。私たちの政治が果たして国民に感動を与えることができるか。その自信がなければ再び“ボイコット”などという言葉を吐いてはならない。

(チェ・ヒョンチャン政治部記者、8月17日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。

ポイント解説

「参加に意義」があったか?

 新型コロナウイルス感染という人類が初めて直面する状況下での五輪開催という難題をなんとか“成功裏”に成し遂げた。海外メディアの多くが「日本でなければできなかった大会」と肯定的に評価している。
 選手や関係者、メディアは制限された中でできる最大限の「おもてなし」を受け、段ボールベッド、コンビニおにぎり、冷凍餃子に賛辞を惜しまなかった。コロナ禍でいったいどこの国がこのような大会を遂行できただろうか。

 特に選手にとっては1年延期されながらも、それまで鍛錬してきた己の努力を発揮できる舞台が用意されたことは感謝以外ないだろう。無観客、外出禁止、移動制限などの中で行われるスポーツイベントとして見れば、まさに選手のための五輪だったと言っても過言ではない。

 労苦を共にして世界中がここで技量を競おうとしていた時、その努力に水をかけようとしたのが韓国である。選手村に挑発的な垂れ幕がどうして必要だったのか。「選手の健康管理」とだけ言っておけばいいものを、科学的にありもしない「福島産食材の放射能汚染」を忌避しようと専用キッチンを用意し弁当を供した。おかげで大好評の餃子を味わう機会を多くの韓国人選手は失った。一部こっそり食べに来た者はネットで袋叩(だた)きに遭った。

 ボイコットするなら北朝鮮のようにきっぱり来なければ何の軋轢(あつれき)もない。来ておきながらのこの所業は日本人や外国人にいい印象を与えたとは到底思えない。ともにスポーツの祭典を祝い、競い、楽しめたらどんなによかったか。他の外国と同じように韓国からねぎらいの言葉が掛けられていたら、韓国への印象も少しは変わっただろうに。来る前からボイコット論議では、それも難しかったかもしれない。残念なことだ。

(岩崎 哲)