「主権在民」は民主国家の大原則、公職者は権力者の部下ではない


韓国紙セゲイルボ

 事実は小説より奇なり、という。法務長官(法相に相当)は詐欺師の言葉を信じ、詐欺師を捕まえる人の話は信じない。法廷で真実を述べると言っていた前法務長官(曺国氏)は裁判が始まると証言拒否したままだ。

韓国の秋美愛法務部長官7月22日、ソ ウ ル(EPA時事)

韓国の秋美愛法務部長官7月22日、ソ ウ ル(EPA時事)

 希代のブラックコメディーがはやっている理由はただ一つ。権力が正義の基準になったためだ。「正義というのは強者の利益」というソフィストの詭弁(きべん)のように「力=正義」と感じるためだ。公職者が最も強い力を持つ大統領の顔色をうかがい、それに合わせて法を壟断する現象はその結果だ。

 先に秋美愛(チュミエ)法務長官は尹錫悅(ユンソギョル)検察総長(検事総長)が人事案に反発すると、「私の命令に逆らった」と大声を張り上げた。“逆らう”という王朝時代の言葉まで使ったが、長官の命は正義の基準になり得ない。民主国家ではたとえ最高権力者であっても選挙を通してしばしば交代させられるほかないためだ。

 西洋のフィートは足の長さに基づいてできた単位だ。ところが足の大きさは人ごとに違う。その時登場した基準が統治者である王の足だ。これさえも王が代わればはっきりしない。国ごとにフィートの長さが違うために混乱が生じがちだった。

 1628年、スウェーデンは世界最大規模の戦艦「ヴァーサ号」をバルト海に浮かべた。建造には自国の技術と資金だけでなく、造船先進国オランダの技術者まで動員した。残念なことにヴァーサ号は出航するやいなや沈んでしまった。皆が艦砲の積み過ぎが原因だと思っていたが、333年後に、ヴァーサ号が引き揚げられ、ついに真実が明らかになった。船の左舷の木材が右舷より長くて厚かったのが本当の原因だった。当時、左舷はスウェーデン、右舷はオランダの技術者が担当した。国ごとにフィートの長さが違ったので、左右対称とならず、結局、大惨事につながったのだった。

 400年前のスウェーデンの状況は国民の中の考えと基準が互いに異なる最近の韓国の現実とよく似ている。“権力者の足”が正義の基準として代替され、話が通じない国に転落した。同じことを、一方は正義といい、他方は不義という。同じ言葉を使っていても、それを説明してくれる通訳が必要な状況だ。

 今必要なのは“不変のメートル法”だ。今日の価値混乱と対立を解消しようとするなら、誰も拒否できない普遍的基準を立てなければならない。民主国家ではその基準は言うまでもなく主権者である国民だ。われわれの憲法の第1条は「大韓民国の主権は国民にあり、すべての権力は国民から出てくる」と明らかにした主権在民の原則だ。

 政府与党では、「検察総長は法務長官の部下ではない」という検察総長の発言を問題にしているようだが、話にならない。公職者は国民以外の誰の部下にもなれないし、なってもいけない。

 人に忠誠を強要する行為は王の足を尺度とする旧時代への回帰だ。「私の命令」なんかで民主原則を傷つけてはならない。

(裵然國(ペヨングク)論説委員、10月28日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。

ポイント解説

批判される左翼政権の「人治」

 臣下に命令を下すような振る舞いが批判にさらされている。しかも拒否すれば、「逆らうのか」とまるで時代劇だ。秋美愛法務長官の話である。なぜ法相が検察を支配しようとするのかといえば、捜査対象が自分の家族だったり、左派政権の側、つまり仲間だったりするからだ。

 自身の息子の兵役問題や、前任者曺国氏のスキャンダルなどに対する捜査をされてはマズいから、検察人事に手を突っ込み(ジェノサイドとまで言われた)、検察総長を槍玉(やりだま)に挙げて露骨に妨害し、捜査権まで取り上げようとした。正義の基準たる法務部の長が恣意(しい)的に基準を曲げたのだ。これには「政権なら何をしてもいいのか」と検察も国民も反発した。法治ではなく「人治主義」の極みである。

 記事は「正義」は権力者が定めるものとなってしまった、と嘆き呆(あき)れている。国が分裂し、互いに主張する「正義」と「不義」がひっくり返っているのが現在の韓国だ。その中で不変の基準を取り戻すには、憲法に帰れと訴える。韓国憲法も「主権在民」だ。だから法務長官が検察総長を「臣下」のように命令に服従させるのではなく、検察は「主権在民」の憲法に基づいて、国民の権利を擁護するよう努めるべきだと主張している。

 問題なのは、今の政権もその国民が選んだという事実だ。一方で法務長官の横車を善しとする国民もいるということだ。この論法で、国民に基準を置けば、支持を得ていれば何でもできるということになる。韓国民の情緒の中に「人治」は根深く刷り込まれている。それでは結局、時の権力側に正義が移るだけの話だ。

 人治主義や情緒法がはびこるかの地で法治主義が確立されるのは簡単なことではない。

(岩崎 哲)