“国らしい国”づくりに逆行する文政府


韓国紙セゲイルボ

歴史観で“2国民”が対抗

 “国らしい国”をつくるとして就任した文在寅大統領は機会あるごとに、「正義、原則、常識が具現される国」を国らしい国と繰り返し強調してきた。しかし政権幹部自らこうした価値を踏みにじることが頻発している。

世宗大王像が建つ夜の光化門広場=2017年5月9日、韓国・ソウル(岩崎哲撮影)

世宗大王像が建つ夜の光化門広場=2017年5月9日、韓国・ソウル(岩崎哲撮影)

 韓国の代表的な広場である光化門広場には世宗大王と李舜臣将軍の銅像があるだけだ。ソウル中心街に甲午農民戦争(東学党の乱)の契機を作った全琫準(チョンボンジュン)の銅像はあるが、大韓民国に功労が大きかった指導者の銅像はなく、労働運動家の全泰壱(チョンテイル)記念館はあるが李承晩記念館はない。第2次大戦以後、最も激しかった戦争を体験した国であるのに戦争英雄の銅像もない。

 韓国を訪れる外国人は首都に国家的象徴物がないことに、どんな感じを受けるだろうか。平壌には金日成と金正日の銅像と記念塔と記念館が並んでいるが、韓国はあちこちに“少女像”があるだけだ。

 首都は国家アイデンティティーの根拠地で国家の象徴だ。ソウルは歴史都市であり国の中心都市だ。ところが与党代表がソウルを“薄っぺらな都市”だと言った後、与党が首都を世宗市に移すという。しかし世宗市は歴史都市でも何でもなく、ひたすら特長のない庁舎と高層マンションがあるだけ。遷都は不動産対策、均衡発展、または政治的利益のために動員される事案ではない。歴史意識の欠如は言うに及ばず、国家千年の大計ともほど遠い軽薄な発想だ。

 太極旗に対する畏敬心も希薄だ。祝日に国旗掲揚する家庭が5%あるか疑問だ。多くの国で“国旗の日”を定めて記念し、祝日には大多数の家庭で国旗を掲揚する。9・11テロ以後数カ月の間、米国の家庭の63%が毎日国旗を掲揚したという。

 国花の無窮花(ムクゲ)も見つけるのが難しいほどだ。公園や道路沿いに植えたムクゲは雑木のように冷遇されている。これが果たして国らしい国の姿か。

 国らしい国をつくるという文在寅政府がかえって逆行しているという非難が多い。国家と国民の生存問題である国家安保に関する対立した認識で争い、世界で最も邪悪な集団によって韓国民が無惨に殺害されたのに政府は平和だけ唱えており、味方と相手では正義と公正の基準が変わり、三権分立から三権統合に突き進む国。これがわれわれが望んだ国らしい国か。

 国らしい国という側面でこのように問題が多いのは、国家アイデンティティーについての対立的認識で事実上“一国家二国民”になっているためだ。国を誇らしく思う“肯定的歴史観”と恥ずかしく清算すべきと思う“否定的歴史観”が対抗しているのだ。否定的歴史観が広まる国で国民が愛国心を持ち、危機に臨んで国のために献身することができようか。

 元西独首相ヴィリー・ブラントは言った。「誰も自身が受け継いだ歴史から自由になれない」と。

(金忠男(キムチュンナム)元外交安保研究院教授、10月5日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。

ポイント解説

過去は変えることができない

 韓国でも自虐史観がはびこっているようだ。それも現政権によって過去の保守政権を「恥ずべき清算すべき歴史」と規定し、それで「国らしい国」をつくろうとしている。文在寅政権が一方で進める「積弊清算」はこれと対の政策である。
 多くの自虐史観が左派思想から生まれているが、左派勢力が進めるのが「革命」だから当然の話だ。体制を恥ずべき間違ったものと規定して、これを打倒して理想を実現する、と大衆を扇動していく。そのためには歴史が誇らしいものであってはならないのである。

 文政権が進めているのは北朝鮮との融和であり、将来の統一である。だからその相手が「世界で最も邪悪な集団」であっては困るし、彼らによって「韓国民が無惨に殺害され」ても、文政府は「平和だけ唱える」しかない。

 もし事件が「独島(竹島)で日本を相手に起こっても同じ反応をするか」と韓国のネット上で話題になっているが、文政権は決して「平和だけ唱える」ことはない。断交する勢いで日本を非難するだろう。文政権が二重基準であることは韓国民なら誰でも知っている。

 過去は自分の都合のいいように変えることはできない。だが文政権のやろうとしていることは左派活動史の美化であり、保守勢力を貶(おとし)めることで、これを歴史の歪曲(わいきょく)と言わずして何と言おう。

 金忠男教授はヴィリー・ブラントの言葉を引用したが、過去を書き換えたり、捏造(ねつぞう)することはできず、そのまま受け入れ、そこから教訓を得ていくしかない。日本との歴史も同じように併合条約も基本条約も「なかったこと」にはできない、重苦しいが事実なのである。

(岩崎 哲)