天安門事件から28年、新事実明らかに
戦車による追撃の前に毒ガス散布
戦車に轢かれ両足失った方政氏が講演
28年前の天安門事件で、戦車に轢(ひ)かれ両足を失った米国在住の中国人民主運動家・方政氏が来日し、「天安門事件を風化させてはならない」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(記憶遺産)登録を目指している現状を東京・文京区で報告した。(池永達夫、写真も)
中国共産党の隠蔽工作に対峙
「ユネスコ記憶遺産」を目指す
安徽省生まれの方氏は、もともとスポーツが得意だったので、当時は北京体育大学に通っていた。中国では言論、結社、信仰の自由を認めない共産党の一党独裁政権が続いている。方氏は、そうした体制に疑問を抱き、中国を民主化したいとの思いから、1989年の天安門広場での政治運動に参加するようになった経緯がある。
だが、天安門広場での民主化運動は89年6月4日、中国人民解放軍の武力で潰(つぶ)される。世に言う「天安門事件」だ。この時、人民解放軍は丸腰で無抵抗だった学生たちを無差別発砲や、戦車や装甲車で轢き殺すなどの残虐な行為によって鎮圧。中国共産党の公式発表では死者319人とされるが、実際の死者数は数千から数万人ともいわれ、その正確な数は今も分かっていない。
方氏は「戦車での追撃態勢に入る前には、毒ガス散布もあった」とも指摘した。学校に帰ろうとした学生たちを、まず襲ったのは毒ガスだった。
「多くの人はただの催涙ガスというかもしれないが、一部学生は窒息死している。私もこれを吸い込み、黄緑色の液体を吐き出した。その液体からは、毒ガスの残留物が検出された」と言うのだ。
毒ガス散布の後、戦車が追撃態勢に入った。毒ガスで倒れた後輩の女学生が戦車で轢かれそうになった時、とっさに方氏が飛び出し救った。天安門広場西の六部口(りゅうふこう)での出来事だった。戦車は車道の端まで寄っていた。道路と歩道の間に柵があり、方氏は女学生を柵にぴったり押し付けて救ったのだ。だが、その隙間は一人がやっとのスペースだった。結局、方氏自身は足を戦車のキャタピラーで轢かれ、両足切断を余儀なくされた。
方氏は「この事実だけでも、戦車のスピードは分かろうというのものだ」と語る。
天安門広場で人民解放軍はライフルを水平撃ちし、逃げ惑う学生らを猛スピードの戦車で轢き殺していったのだ。
方氏が確認しただけでも、11人の学生が死亡し、中には骨盤が粉砕されたまま息絶えた学生もいた。方氏は「六部口の惨劇だった」と述懐する。
方氏は天安門事件で足を失ってからもアスリートを続け、障害者スポーツのやり投げと円盤投げで全国優勝したが、政府は天安門事件の当事者である方氏を表舞台に出さないために世界大会への出場権を奪った。政府は国際大会でメダルを取ることよりも、天安門事件の犠牲者である方氏を海外メディアが取材しないようにしたのだ。
こうした中国の天安門事件隠蔽(いんぺい)工作は28年間、一貫している。天安門広場で行方不明になった学生の父母が真相究明に動いただけで、投獄されたケースもある。無論、親が仕事を失ったり弾圧を恐れ、自分の息子が犠牲者になったことを言えない人も多くいる。
だから中国の若者の多くは、全く天安門事件を知らず、海外に出て初めて天安門事件を知るというケースは後を絶たない。
方氏は現在、天安門事件を「ユネスコの記憶遺産」にする運動を展開中だ。
方氏は「ただ記憶をとどめるのではなく、中国の一党独裁体制を打破し、悲劇を二度と起こさないための一歩だ」と言う。
方氏の「記憶遺産」運動は、中国共産党の隠蔽工作と正面から対峙(たいじ)する歴史をめぐる争奪戦だ。アスリートだった方氏は、両足を失う生活を余儀なくされているが、車椅子の戦士へと豹変している。






