北海道平和大使協議会オンラインシンポ 「朝鮮半島の統一・平和をどう考えるべきか」


基調講演要旨

同志社大学グローバル地域文化学部嘱託講師 浅井良純氏

東アジア経済圏構築の基軸に

 未(いま)だ冷戦構造が終焉(しゅうえん)していない朝鮮半島。大国の利害が絡み合い「世界の縮図」ともいえる地域だが、朝鮮半島の動向は隣国である日本にも大きな影響を及ぼす。核ミサイル開発に余念のない北朝鮮という不安定要因を抱える中、「朝鮮半島の統一・平和をどう考えるべきか」をテーマとした北海道平和大使協議会主催のオンラインシンポジウムがこのほど札幌で開かれ、基調講演の講師として浅井良純・同志社大学グローバル地域文化学部嘱託講師が招かれた。以下が講演要旨。

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カギ握る日韓米連携
分断の起点はヤルタ会談

同志社大学グローバル地域文化学部嘱託講師 浅井良純氏

 あさい・よしずみ 天理大学外国語学部朝鮮学科卒業、韓国・延世大学校大学院史学科に留学、博士課程を修了。同志社大学、関西学院大学、立命館大学、関西大学で講師を務める。一般社団法人平和政策研究所客員研究員。専門は朝鮮半島の近代史、研究テーマは韓国併合前後の官僚研究。

 朝鮮半島の統一という問題を考える場合、戦後、なぜ半島が南北に分断されてしまったのか。ここから掘り起こしていかないと本質部分が見えてこない。結論から言って、朝鮮半島が分断される出発点となるのは1945年2月のヤルタ会談での米国・ソ連の密約があったことに由来する。この時、米国のルーズベルト大統領はソ連のスターリン首相に対し対日参戦を要請した。それはソ連が、東アジアに持っていた日本の支配領域に進出することができる口実を与えることとなった。ソ連は対日参戦に関して連合国の立場で進出したことになる。これによって朝鮮半島分断の道ができてしまった。

 ソ連は長年、共産主義陣営の拡大戦略を練っていた。レーニンはかねてより「共産主義の最後の勝利を得るまで基本的原則となるべき戦術がある。それは資本主義諸国の二つの体制間の対立を利用して、それらを互いにかみ合わせる事だ」とし、これを第2次世界大戦において実践したのはスターリンであった。彼は「日本を暴走させよ。日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そしてドイツと日本の前には米国を参戦させよ。そうすれば日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らし回って荒廃した地域をそっくり共産主義陣営が頂くのだ」とコミンテルン第7回大会で述べている。日ソ不可侵条約の結果、日本は南進をしたことでフィリピンに影響圏を持つ米国とぶつかることになる。そして、敗戦に至る日本の支配領域(満州・朝鮮半島)にいち早く進出するための口実をつくったのがヤルタ会談であった。

 もし、ヤルタ会談がなければ朝鮮半島の分断もなかっただろう。米国が満州、朝鮮半島を含めた東アジアを管理していれば、これらの地域は日本と同じように発展していったに違いない。従って、半島分断の起源を考えたときに米国に一つの責任があると私は考えている。

 それでは、南北分断はその後、どういう状況をつくったか。単に北朝鮮と韓国が南北に分断されただけではないということだ。北朝鮮の後ろにはソ連と共産中国がおり、韓国には米国と日本という強国がバックに付いている。いわゆる米国、ソ連、中国、日本の四大国が南北両国に利害関係を持って関わるという地政学的な状況をつくってしまった。これが南北を統一するに当たって難しい状況をつくっている。南北が動き出せば、利害関係のある四つの国が連動して動く図式。従って、四大国が協力して統一に向かって動くというような国際環境をつくらなければならないということになる。

 では、統一のためにはどのような国際環境が必要なのか。その一番注目すべきは、1985年に西ドイツのボンで行われたサミットで当時、日本の首相であった中曽根康弘氏が米国のレーガン大統領に世界の冷戦をわれわれの力での解消しようと提案した際に、朝鮮半島の問題に関してクロス承認を持ち掛けたことである。

 いわゆる38度線について当時、韓国は中国、ソ連と国交がなかった。北朝鮮は米国と日本と国交がない。そこで一気に韓国とソ連・中国、そして北朝鮮と日本・米国が互いに「たすき掛け」のような形で国交を結ぶ、いわゆるクロス承認を実現することで38度線を取り払う国際環境をつくるという提案であった。これがとても重要だと考えている。

 ところでクロス承認案は中曽根氏が考え出したのではなく、韓国の全斗煥大統領が中曽根氏と信頼関係を築いていく中で同氏に協力を要請したもので、クロス承認は韓国政府では北方政策として最終的に次の大統領となる盧泰愚氏に引き継がれていった。

 結果的に韓国は1990年9月にソ連との国交が実現、92年8月に中国と国交を結び北朝鮮に対して外交的優位性を持つことになる。それによって韓国は北朝鮮に変化を促す道をつくろうとしたのである。

 それではソ連・中国と国交樹立を果たした韓国は朝鮮半島の統一に向け、あるいは北朝鮮にどのような影響を与えたのか。

 外交的にも経済的にも優位に立った韓国に対して、北朝鮮は自滅するかもしれないという危機感を抱く。そのような状況を打開する方法として北朝鮮は、日本・米国との国交樹立を考えた。

 90年12月、日朝交渉の予備会談が開かれ、91年1月から交渉が5回立て続けに行われている。さらに翌92年1月、初めての米朝高位級会談も行われた。しかし、米国には相手にされず、続けてきた日朝交渉も結局、決裂してしまう。

 93年に米国との交渉の場を開こうとNPT脱退宣言によって始まった北朝鮮の「核外交」による対米路線が2017年11月の「国家核戦力完成宣言」によって最終段階を迎える。米国全土を射程に収めるICBM「火星15号」の発射成功をもって金正恩総書記は「国家核戦力完成の歴史的大業、ロケット強国の偉業が実現した」として、対米抑止力の完成を宣言する。金総書記はこれによって米国と対等に外交交渉を行える国家になったことを宣言し、この後、韓国平昌オリンピックに参加、さらに18年6月に韓国文在寅大統領の仲立ちをもってトランプ大統領とのシンガポールで米朝首脳会談を実現することになる。しかし、米朝会談はその後、19年2月(ハノイ)、同年6月(板門店)で交渉は決裂し、関係改善の道も閉ざされた。

 本来、自由で開かれた朝鮮半島の統一を実現するには日韓米が連携強化の下で推し進め、北朝鮮と米国の改善を図るべきである。今回、米朝交渉が決裂した原因の一つは韓国と米国の連携が取れていないところにある。文在寅大統領の外交政策はバランサー外交を基本としている。文政権は、これまで自由主義陣営である日韓米の連携強化が南北対立を維持してきた要因であるという認識から、米国・ロシア・中国・日本に対しバランスを取る外交を進めことが南北の統一に寄与するものと考えている。

 しかし、このような外交政策は同盟関係にある米国の不信感を招いた。一方、日本とは徴用工の賠償判決(18年10月)や慰安婦問題での和解・癒し財団の解散(同年11月)など戦後最悪と言われる日韓関係に陥った。日韓、韓米がギクシャクしていれば、自由で開かれた南北統一は自ずと難しいと言わざるを得ない。

 ところで、クロス承認を推進した盧泰愚大統領は、1990年5月に日本を訪れ、国会で「過去を振り返って誰かを咎(とが)めたり恨んだりしようとは思いません。私が皆さまに申し上げたいのは、両国民の真実に基づく真の理解であり、それを土台として明るい未来を開くということであります」と演説し、日韓の連携強化をうたった。

 朝鮮半島の統一は、それを取り巻く地政学的環境と南北の経済格差を考えたとき、韓国だけでは対応できない側面を持っている。盧泰愚大統領は安定的な統一環境を整えるためにも日韓の経済的連携を軸とした東アジア経済圏を構築することを構想していた。すなわち、南北の平和統一を実現するためには経済的な側面においても日韓の連携は不可欠な要素なのである。