なぜか台湾を安住の地に選んだ海兵 樋口 勝見

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(13)

台湾との関わりはないが、屏東県の龍安寺に祀られている

なぜか台湾を安住の地に選んだ海兵 樋口 勝見

台湾・塀東県枋寮郷隆山村龍安寺の地図

 「海角七号―君想う、国境の南」という台湾映画がある。2008年8月に台湾で、翌年12月に日本でも公開された。日本が台湾を統治していた頃の切ない恋愛物語で、史上空前の大ヒットとなり、これを見ると「海角七号症候群」と呼ばれる中毒症状が出るという噂(うわさ)が広まるほど、台湾で社会現象を巻き起こした。

 公開間もなく、そのロケ地である屏東(へいとう)県の域内に入る台湾最南端の恒春半島を旅した。同行してくれたのは、恒春生まれ恒春育ち、同じく屏東県にある永達(だいかん)技術学院(2014年に廃校)で教鞭(きょうべん)を執る友人だった。「技術学院」というのは、言わば大学と専門学校の中間に位置する技術系の学校である。

 慶應義塾大学に留学したこともある彼は、「日本史オタク」を自任するほど日本の歴史に詳しい。車中、そんな彼から「屏東県に龍安寺という大きな寺院がある。そこにヒグチさんという日本軍人が祀(まつ)られている。ただ、台湾とは何の関わりもない人物らしい」と聞かされた。

なぜか台湾を安住の地に選んだ海兵 樋口 勝見

海軍軍服を着た樋口勝見の神像(筆者撮影)

 レイテ沖海戦は1944年10月、フィリピンの広大な海域で展開された日米海上決戦で、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦といった四つの海戦から成る。その際、日本の連合艦隊は可動全力を投入し、決死の戦いを繰り広げるも、壊滅的な打撃を受け大敗し、日本海軍の艦隊戦力は、これを最後に事実上、消滅してしまった。

 この戦いに参戦したのが「ヒグチさん」らしい。早速、彼に詳しい情報を調べてもらった。場所は屏東県枋寮(ぼうりょう)郷隆山村で、以前、このコラムで紹介した海軍少将の田中綱常を祀る「東龍宮」から車で5分ほどの所にあることも分かった。

佐賀出身、29歳の若さでフィリピンの海域に散華

 龍安寺を訪れたのは2013年9月のことだった。台湾では珍しく肌寒い日だったと記憶している。「龍安寺」と書かれた石造りの門を潜(くぐ)る。すると、巨大な観音菩薩像が目に入った。敷地内には、ダンプカーが何台も止まっている。ヘルメットを手にした作業員たちが、折り畳んだ梯子(はしご)に腰を下ろし談笑していた。新本堂の建設中らしい。

 奥に進むと仮本堂が建っていた。堂内に入ってみるも、それらしきものは何も見当たらない。場所を間違えたのか。不安が過(よ)ぎる。祭壇の前では一人の老人が神妙な面持ちで線香を焚(た)きながら念仏を唱えていた。とても言葉を交わせるような雰囲気ではない。仕方なく一旦(いったん)、外に出ることにした。

なぜか台湾を安住の地に選んだ海兵 樋口 勝見

樋口の神像を祀(まつ)る龍安寺の祠堂(筆者撮影)

 すると、仮本堂の手前に倉庫にも似たタイル張りの祠(ほこら)が建っていた。中は薄暗い。祭壇には、片手に刀剣を持ち、凛然(りんぜん)とした表情で椅子に座り正面を見詰める日本軍人らしき人物の神像が鎮座していた。黒ずんではいるものの、金色に塗られた荘厳で華やかな作りである。その後ろには龍の絵が描かれ、向かって右側に「故海軍上等機関兵曹樋口勝見之霊」と書かれた位牌、壁には樋口本人の遺影が飾られてあった。

 一体、どんな人物なのか。祠の中に掲示された説明板、龍安寺管理委員会が発行しているパンフレットから紐解(ひもと)いてみよう。

 樋口は1917年に佐賀県で生まれた。軍靴の足音が高まりつつあった37年1月、佐世保海兵団第32分隊第3教班に入営し、翌年には実戦に参加して、その後、巡洋艦「常盤」、水雷艇「友鶴」、輸送艦「第15福榮丸」、駆逐艦「朝潮」に乗船する。そして第2次世界大戦末期の44年10月25日、レイテ沖海戦にて、駆逐艦「初月」に乗船中、アメリカの水上艦艇部隊から集中砲撃を受けて撃沈し、29歳の若さでフィリピンの海域に散華したという。

 確かに樋口は「台湾とは何の関わりもない人物」のようである。彼の軍歴からは「台湾」という文字は一つも出てこない。なぜ、そのような人物が台湾で祀られるのか。

位牌が流れ着く、観音菩薩からの啓示に従い祀ることに

 時は流れ、83年12月のことである。戦場となったレイテ沖で戦没者を弔うための洋上慰霊祭が執り行われ、その際、戦死者の位牌(いはい)が海に投じられた。

 それから2年後、地元の漁師が龍安寺付近の海に漁に出たところ、台湾に流れ着いた位牌が網の中から発見された。不気味に感じた漁師は、すぐに位牌を海に投げ捨てたものの、その後も続けて同じ場所で位牌が網に入っていたため、持ち帰ることにした。漁師は龍安寺寺主の長男だった。位牌には樋口の名前、そして裏側には遺族名と住所が記されてあった。

 「日本人の位牌に違いない」と思った寺主は、この位牌に書かれた記述を頼りに佐賀県にいる遺族を探すことにした。結果、実在した人物であったことが分かり、しばらくして寺主は日本で遺族との対面を果たす。やがて、観音菩薩から受けた啓示に従い、龍安寺内に小さな祠を建て「先鋒祠」と命名し、樋口を模した神像を作って安置した。

 それにしても、なぜ樋口は台湾を安住の地に選んだのか。理由は分からない。人も自然も大らかで寛容な台湾であれば、安心して眠ることができると思ったのかもしれない。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生