中国文明の変遷と南シナ海
南海路経由で文化流入
近世まで誰も海を領有せず
南シナ海は、今の中国政府が言うように、2000年来中国の海だったのであろうか。
中国文明は、北の草原の道、西のシルクロードや青海路、南の南海路などを通して流入してくる文物によって常に変容してきた文明であった。中国文明もオリジナルな文明ではなく、各方面から異なった文明が入ってくることによって形成されてきた複合文明なのである。中でも、インド洋や南シナ海を通して受容した南海路経由の文化が、中国文明を海の方から変えていったことは見逃せない。
南シナ海を介した中国大陸―東南アジア―南アジアを結ぶ海上交通路は、紀元前4世紀の戦国時代には既に普及し、漢代には、それがより発展した。ローマの使節と称する商人が洛陽にやって来たのも、日南郡(ベトナム中部)からであった。後漢時代に入っても、南シナ海を通した南海貿易は盛んに行なわれた。ベトナム南端の扶南国の港市遺跡、オケオ遺跡から、漢代の鏡が出土しているのも、漢との盛んな貿易を物語っている。
三国時代にも、江南を支配した呉は、南海貿易で利益を上げた。呉の孫権の時代に、扶南からの何度かの遣使に応えて、朱応と康泰が扶南国へ派遣されたのも、交易を盛んにすることが目的であった。魏晋南北朝時代にも、南朝は南海貿易で繁栄した。5、6世紀に東南アジアに興った多くの港市国家も、中国と、インドや西アジアの間の中継貿易で栄えた。
唐時代にも、南シナ海交流圏は繁栄した。例えば、唐代になって、中国南部の沿岸諸都市に盛んに来航したイスラム商人たちは、東南アジア諸国を介して、インド洋と南シナ海を結ぶ貿易に活躍した。彼らを通して、西アジアの文化が唐にもたらされ、唐の国際文化形成に寄与した。特に、広東の広州は、大商業都市に発展し、多くのイスラム商人が居留地を設け、自治権を獲得して、南シナ海とインド洋の貿易に従事していた。
大乗仏教、中でも密教が、陸路ばかりでなく、海路を通って唐にもたらされたことも、忘れられない。インド洋から南シナ海を通ってもたらされた大乗仏教の道は、既に5世紀前後の法顕によって開かれていた。唐時代にも、無行禅師や義浄はスマトラを通ってインドに入っている。中国に密教を伝えた南インドやスリランカ出身の僧(金剛智や不空)も、多くの場合、ベンガル湾から東南アジアを経て南シナ海を通って入唐している。南シナ海は、また、大乗仏教の道でもあったのである。
宋時代に入っても、華南の沿岸地帯は繁栄、未曽有の経済成長の時代を迎えた。自然科学でも、南海路を通してもたらされたイスラム科学の影響もあって、数量的実験科学、代数学、化学、地理学、天文学、植物学、医学、薬草学などが発展、それらを背景に、測量術、建築術、造船技術なども発達した。この科学技術の発達は、生産性の増大と経済の発達をもたらし、それは、東南アジアや南アジア、そして西アジアとの貿易を盛んにした。そのため、中国沿岸部、特に華南の沿岸都市が繁栄、北宋時代には、広東の広州、南宋時代には泉州が、南海貿易の中心基地となった。各都市には市舶司(貿易事務所)が設けられ、多数のイスラム商人が来住した。
16世紀以降の東アジア海域は、ポルトガルやスペイン、オランダやイギリスの西欧諸国の登場によって特徴付けられる。ポルトガルやスペイン、オランダやイギリスが東アジア海域で盛んに貿易を行なった16世紀から19世紀は、西欧諸国の活動を通して、中国大陸へも、西欧文化が流入してきた時代であった。それは、宗教、科学、軍事、あらゆる方面に及んだ。
なかでも、キリスト教の普及は目覚ましい。中国へのキリスト教布教の先兵となったのは、ポルトガルの後援を得たイエズス会の宣教師たちであった。その布教の努力は、日本からの帰途、広東沖の上川島(じょうせんとう)で客死したフランシスコ・ザビエルやその後入明したマテオ・リッチによってなされた。徐光啓や李之藻は、中国人で入信し、カトリック普及に貢献した知識人、官僚としてよく知られている。
しかし、キリスト教の宣教師たちがもたらした西欧文化は、キリスト教信仰だけでなく、彼らが広めた西欧近世の科学知識や技術の方も、中国文明に対して大きな影響を与えた。その知識や技術は、数学、自然科学、医学、天文暦法、地理学、絵画の技法、機械学、砲術、あらゆる面に及んだ。中国文明も常に外来文化の影響を受けて自己形成してきたが、16世紀以来の西洋近世文化の流入は、中国文明の近世を成立させたのである。ここでも、インド洋や南シナ海など、海上交通路を通って入ってきた文明の力は無視できない。
しかし、その海は決してどこかの国の支配する海ではなかった。少なくとも近世までは、インド洋や南シナ海に関しては、どこも海そのものを領有しようとはしなかった。制海権とか制空権というようなもので、海全体を支配しようとはしなかったのである。
(こばやし・みちのり)