結党30年迎える台湾・民進党 蔡主席の下、団結・再生
包容力ある政治で前進を
台湾の蔡英文政権の与党、民主進歩党が、この9月で結党30年の節目を迎える。この30年は、台湾の民主化完成、政権交代を含む普通の政党政治が実現する過程であった。
さて、権威主義体制や独裁国家が民主主義へと進む際に画期となるのは、政府批判の自由を持つ野党の存在が容認され、実質的な複数政党制が実現することである。台湾における民主化のメルクマールは、国民党への対抗軸として民主進歩党(以下、民進党とする)が設立されたことであった。
戦後、国民党支配下の台湾では、国共内戦の戦争状態を理由に1949年に戒厳令が布かれて、台湾の人びとの自由や権利は大幅に制限された。この間、地方選挙や国政選挙が行われたが、国民党の一党支配で、他の政党の結成は認められなかった。このため選挙の際の立候補者には、国民党と国民党以外という2種類しかなかった。国民党でない候補者は、ひとまとめに「党外」と呼ばれた。
こうした事態を打開するため、民主化を求めるさまざまな街頭運動が行われたが、その山場となったのが美麗島事件だった。79年12月10日に行われた、『美麗島』雑誌社の主催による「世界人権デー」記念大会のため、高雄市内の会場には3万人とも言われる人々が集まったが、警察・軍との衝突で数百人が負傷する事態となり、主催者および関係者が逮捕された。
この美麗島事件で首謀者とされた8人は軍事法廷で裁かれ、翌年4月に、無期懲役あるいは14年、12年の実刑判決を言い渡された。ところで、この事件の被告の弁護を担当した弁護士たちは、後に民進党の中核メンバーになる。
秘密裏の準備を経て、「党外」人士を集めた民進党が、呱々(ここ)の声を上げたのは86年9月28日のことだった。結党時の署名者は132人、その中核となった18人小組のメンバーには、後にそれぞれ行政院長(首相に相当)を務める張俊雄、謝長廷、游錫堃、蘇貞昌の4人、それに総統府、行政院、国家安全会議の秘書長を歴任した邱義仁や、現高雄市長の陳菊も含まれていた。
実は、この翌年の87年7月15日には戒厳令が解除されることになるわけで、民進党結党時は政党結成が非合法であったが、蒋経国指導下の国民党政府は、国際的な民主化圧力の下、民進党の活動を黙認した。それ故ここから、台湾の政党政治が芽吹くことになった。 いずれにしても、当初の民進党への参加者は、戒厳令下に国民党に立ち向かって「党外」活動を繰り広げた、いわば筋金入りの闘士たちである。しかし換言すれば、思想的、政策的に多様な人々が、ただ国民党に対抗するために大同団結したのが民進党だった。当然、党内ではさまざまなグループ間の軋轢(あつれき)が起きることになるが、このことは2000年に民進党政権が成立しても、08年に政権を喪失しても、12年総統選挙の際にも、なかなか消え去るものではなかった。
それが変わったのは14年のことだったかもしれない。
その3月16日、来る民進党主席選挙に向けて、謝長廷、蘇貞昌と蔡英文の出馬表明が出そろった。ところがその2日後、学生が立法院(国会)を占拠する「ひまわり学生運動」が起きた。学生たちがいくつかの政治的成果を手に立法院を去ったのは4月10日である。すると4月14日、蘇貞昌と謝長廷が「党内の分裂を避ける」などの理由で不出馬を表明し、民進党主席候補は蔡英文に一本化されてしまった。学生運動を契機に噴出した新たな政治の潮流にふさわしい民進党の新リーダーは、蔡英文をおいて他にいなかったのである。
その蔡英文主席の下で戦われた同年11月の統一地方選挙で、民進党は圧勝した。この政治的激変の中で、蔡英文民進党は、国民党と戦うための「党外」連合体としての残滓(ざんし)を払拭(ふっしょく)し、台湾アイデンティティーに立つ誰もが支持できる、開かれた政党となった。
昨年2月、民進党の総統候補選出においても、有力候補の蘇貞昌元行政院長も、頼清徳台南市長もあらかじめ不出馬を表明して蔡英文に一本化した。
総統候補として昨年10月に来日した蔡英文は、都内で開かれた支援者の会で、4年前には「皆さまの前ですべての同志が蔡英文派であるという自信はなかったかもしれない」が、今回は「私は自信をもって、我々は全員蔡英文派です、と大きな声で言えます」と高らかに宣言した。
こうして蔡英文主席の下に団結し、再生された民進党は、国民の信頼を取り戻して、今年の総統選挙、立法院総選挙で大勝を収めた。
今や、高まる中国の軍事的、経済的圧力の下、台湾が主権を守り、繁栄を勝ち取るために、台湾の人々は結束して対抗しなければならない。このため民進党は、党内、国内の党派対立に現(うつつ)を抜かすことなく、台湾の総意を代表して、包容力ある政治をもって前進していかなければならない。
振り返ってみれば、30年前の結党式当日、現在の謝長廷・台北駐日経済文化代表処代表が民主進歩党という党名を提案、大方の賛成を得てこの党名が決まったとき、その念頭にあったのは「民主的包容、進歩的取向」の10文字であった。
(あさの・かずお)






