若返り薬NMNの衝撃

佐藤 唯行

獨協大学教授 佐藤 唯行

シニアの生活様式一変
変わる世代間のカネの流れ

 不老不死の願望は人類の歴史と共に古い。

 日本最古の歴史書『古事記』の中にも垂仁天皇の勅を奉じて不老不死の秘薬を探すうちに常世(とこよ)の国に至った忠臣、田道間守(たじまもり)の故事が登場する程だ。

 長らく想像上の産物と思われてきた不老薬だが、近年、にわかに現実味を帯びてきたのだ。それは米ワシントン大学(ミズーリ州)の今井眞一郎教授を中心とする研究グループによって開発されたNMN(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)と呼ばれる薬だ。NMNはビタミンに似た物質で、ヒトや動物の長寿遺伝子を活性化し、細胞組織レベルで若返りをもたらす画期的な抗老化薬なのだ。

 その効き目はすごい。動物実験では、人間で言えば老人に相当するマウスが、長期間、この薬を投与されると、「青年並み」に若返ったそうだ。これを人間に投与し、安全性を見極めるための臨床実験が目下始まろうとしているのだ。最終的に医薬品として販売認可が下りるまでには幾多の課題を克服せねばならないだろう。しかし、人の宿命である老化の壁を突き破ろうとするこの薬剤開発は近未来の人間社会に計り知れぬ衝撃を与えることになるであろう。

 将来の認可を見越して、某製薬会社では発売価格を1回分、0・1㌘、数万円と想定しているそうだ。この高価な薬を長期間継続して服用できる人はおのずと経済的ゆとりのある者に限られるであろう。各国政府もこの薬ばかりは薬価の引き下げを許さないだろう。高齢人口増大に伴う年金財源枯渇に呻吟(しんぎん)する政府当局にとり、「若返り薬の大衆化」で、現状よりもさらに平均寿命が何十年も長くなる超高齢化社会の到来など断じて容認できないからである。

 現在、シニア世代にとり、大きな楽しみの一つが、かわいい子や孫のためにカネを使う消費行動であろう。老い先短い自分の手元にカネをため込んでいてもしようがないからだ。

 ところが、その基本前提そのものがNMNの発売によって覆されてしまうかもしれないのだ。高価な市販薬として、NMNが認可されたあかつきに到来するやもしれぬ近未来の姿を次に想像してみよう。

 まず予想されるのは家族内における世代間のカネの流れに異変が生じることだ。NMNは運動機能、性的機能までも含めた細胞レベルでの若返りを可能とする薬だ。これを継続的に服用することで人は80歳、90歳になっても活動的人生を楽しめるようになろう。すると、それまで諦めかけていた自分自身のための新たなカネ遣いに人は目覚めるはずだ。

 若返った肉体が求め始める長らく忘れ去っていた欲望を満たすために、カネは幾らあっても足りなくなるだろう。「新若者」に変身して、異性獲得の「恋愛市場」で「本当の若者」と競い合う元気なシニア世代すら出現するやもしれぬ。年の功で包容力と資金力を兼備した「新若者」が「本当の若者」に勝ってしまうかもしれないのだ。

 たとえ肉体が若返ったとしても、産業界に定年制度がある以上、現役時代と同様の給与の高い仕事には就けそうもない。だとすれば、「若返り人生」を謳歌(おうか)するには株・債券などへの投資による潤沢な配当収入を稼ぐための金融資産を手元に残し続けることが必要となろう。その結果、シニア世代のライフスタイルが一変するやもしれぬ。盆暮れ、正月に遊びに来る孫にごちそうし、小遣いをあげ、一緒に旅行することが大きな楽しみだったシニア世代の中に、子や孫のための支出を極力控える者が続出するやもしれぬ。

 子や孫のためにシニア世代が使う消費と贈与は年間、実に3兆8000億円と試算されているが、この莫大(ばくだい)なカネの流れも大きく様変わりするかもしれない。富裕層シニア世代から資産の世代間移転を図り、それにより消費を喚起しようとする安倍政権のもくろみ(すなわち孫への教育資金贈与、子への住宅取得資金贈与に大幅な免税優遇措置を与える政策など)に狂いが生じるやもしれない。

 さらに家庭内では「若返り人生」を楽しむための軍資金分配をめぐり、熟年夫婦間で新たないさかいが生じることも予想されよう。夫婦そろって「若返りの恩恵」を享受するためには、よほど潤沢な資金が必要となるからだ。その点、自分のカネを自分のためだけに使える独身貯蓄派は有利だ。第二の青春で「新若者」に変身して人生を謳歌できるならば、定年まで、ひたすら資産形成に励み、独身生活をもいとわぬ先憂後楽に徹したライフスタイルがもてはやされるかもしれない。NMNの製品化はさらなる晩婚化を加速させるであろう。

 シニア世代の消費に水を差す辛気臭い話になってしまったが、「気付いてみたら手持ちの軍資金が足らぬ」では後の祭りだ。世の中は最後の最後まで何が起こるか分からない。NMN発売後、様変わりするだろう社会への備えは怠ってはならないだろう。

(さとう・さだゆき)