新聞は社会の木鐸たれ
世論に迎合する「東京」
戦争を学ばず平和を論ずる
8月3日、東京新聞は、今年度防衛白書について、①「『安保法は平和のため不可欠』 違憲の指摘には触れず」と題し、同書は「安保法について章を立て『国民の命と平和な暮らしを守り抜くため必要不可欠』と正当性を強調する一方、……集団的自衛権の行使を容認したことに憲法学者の多くが『違憲』としたことには触れなかった」と批判②「中韓 不満や抗議」と題し、「南シナ海の航行の自由は本来何の問題もない。日本などが介入し、地域の平和と安定を壊している」との中国の主張を紹介。韓国は、竹島を「『わが国固有の領土』と記述したことに抗議した」と報じている。
しかし、同盟国米国はもとより、豪州、インド、東南アジアおよび欧州諸国が高く評価し、強い支持を寄せていることは全く触れていない。国防を担当する防衛省は シビリアンコントロール下にあり、防衛白書は憲法学者の意見を認識の上、あえて合憲を説明し、国民に理解を求めるべきであろう。
国民も、マスメディアにより、最近の中国の南シナ海への進出,軍事基地化、尖閣諸島占有の欲望、および北朝鮮の核戦力化などによる脅威を認識し、さらに米国の新大統領候補の発言の米国第一主義による日米同盟の弱化を懸念し、我が国の平和と安全に不安を感じつつあるだろう。
防衛白書は「わが国を取り巻く安全保障環境」について、不安定要因がより顕在化、先鋭化し、一層厳しさを増していること、および「平和安保法と憲法の関係」につき、武力行使について3要件を明示し、個別的自衛権と集団的自衛権の区別なく、我が国が自衛権を有することを言及した上で、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な「自衛の措置」を取り得るだろう。この3要件が過不足なく反映されている「平和安全法」は、従来、政府が示してきた憲法解釈の基本的論理を維持したものであるとともに、最高裁判所の出した砂川判決の範囲内であり、憲法に合致していることを詳述している。同書の普及により、国民の「平和ボケ」も治り、改憲の世論も高まるであろう。
8月15日、敗戦記念日には、各地で戦争犠牲者に対する慰霊祭が挙行され、国民は平和を祈念し、新聞などは「戦争の悲惨さを語り伝えよ」と論じた。その後も、東京新聞は、母親や学生等の戦争拒否の言葉を報じた。
18日、「駐留米軍を違憲と指摘 元裁判官 松本一郎さん死去 85歳」「『憲法大切に』強い思い」と題し、松本氏が、砂川事件に関する伊達判決について「戦力不保持をうたう九条を中心に憲法は大切にしないといけない」と語ったとし、「戦争を知る世代の言葉だけに、ひときわ重く響いた」と紙面の3割を当てて報じた。松本氏は戦争経験者とはいえ、当時、熊本幼年学校生徒で、16歳未満の少年であり、戦争の悲惨さのみを知っていたにすぎない。むしろその後、平和偏向教育により、反戦平和者になったであろう。
同紙はさらに、22日、1面トップに「101歳 反骨のジャーナリスト むのたけじさん死去」と題し、むの氏が反戦平和を訴え続けたことを大きく掲載した。さらに翌23日の社説では、むの氏は「新聞記者として戦争取材にかかわった自責の念を戦後の原点」として反戦平和を貫いたと指摘。さらに彼は5月3日、「九条こそ人類に希望をもたらす。憲法のおかげで、戦後七十一年間、日本人は一人も戦死せず、相手も戦死させなかった」と語り、「ジャーナリズムを貫いた」と評価。「戦後の暗闇を照らし『たいまつ』の精神を私たちは受け継いでいきたい」と結んでいる。
「新聞は社会の木鐸(ぼくたく)」と称されるが、世論に対し大きな影響を及ぼす。ジャーナリズムに徹することは正しい。むの氏の“戦後の70年の平和は憲法9条のおかげ”とは、あまりにも視野不足である。日本が侵略を抑止できたのは、集団的自衛権による米国の巨大な戦争抑止力と精強な自衛隊による。平和を論ずるためには、戦争を学ぶべきである。憲法学者の文字面だけの意見を尊重し、軍事大国化し、国際法を無視した侵略の野望に対し、護憲に徹して平和を守るため「不戦の誓い」は、独立国には許されない。
顧みれば、1939年、国際連盟を過信して自国の安全保障を軽視した欧州諸国は、ドイツの侵略に蹂躙(じゅうりん)された。その後、第2次世界大戦の惨禍を体験した国々は、再び平和構築のため、国際連合を結成し、現在、世界全国190カ国が参加しているが、依然として世界から戦争は絶えない。国連平和憲章には、個別的自衛権、集団的自衛権を認めた上、集団安全保障として、侵略国制裁のために、最終的には加盟国に兵力の提供を義務付けている。憲法第2章、戦争の放棄は、誤解されやすい。政府は、国際情勢は悪化し、迫り来る脅威に備え、「平和安保法」を制定した
東京新聞は憲法学者の意見のみを尊重し「平和ボケ」の世論に迎合してはいないだろうか。学者に、9条厳守で日本の独立を期待できるかを問うべきだろう。「力なき正義は無効」「政治は選択の技術」である
(たけだ・ごろう)






