「赤いナポレオン」ザップ将軍
ベトナム国葬に長蛇の列
裏側に政治腐敗への批判も
10月4日「赤いナポレオン」ボー・グエン・ザップ将軍が亡くなった。102歳の長寿を全うしたが、その人生はまさに近代ベトナムの歴史そのものであった。13日には国葬が執り行われたが私は偶々ハノイに居合わせた。
私は2003年には大使着任後の、そして2008年には離任の際、それぞれ挨拶の機会を得た。すでに高齢であったこと、静かに余生を送っていることもあり外部の人、ましてや外国の大使などには会わないが、日本大使は特別であるとして会っていただいた。いずれも夫人と2人の息子が同席された家族的雰囲気であった。
ザップ将軍は何と言っても1954年5月、フランス軍をハノイの北西500キロのディエン・ビエン・フーにおける大会戦において破り、フランス植民地支配を終わらせたことで有名である。その後もホー・チ・ミンの盟友として軍事部門を統括し、ベトナム戦争を戦い、1979年の中越戦争においてはわずか1カ月で中国軍に多大の損害を与え、撤退に追い込んだ。
この間、国防大臣兼副首相・政治局員としての立場にあったが、80年国防大臣を、82年には政治局員を外され、91年には副首相も解任され引退に追い込まれた。これは親ソ派と言われた彼の立場や、汚職、腐敗など進行しつつあった共産党への歯に衣着せぬ批判などが背景にあったとされる。このように彼の政治家としての晩年は必ずしも幸せだったとは言えないが、国民、特に若者の人気には絶大なものがあった。
10月13日、彼の生誕地クアンビン省において国葬が営まれたが、終日テレビが生中継し参列者の列は絶えることが無かった。4日に死去後12日までハノイで一般の弔問が行われ、私も昔将軍との面会の際に撮った写真を胸に弔問に出かけたが、あまりの列の長さに数時間かかると言われ、やむなく遠くから手を合わせて帰らざるを得なかった。
国の隅々からわずかな収入しかない農民までが飛行機に乗り、ハノイに弔問に来る者も少なくなかった由。私の友人の元大臣経験者や学生は、このように多くの国民が弔意を表するのはザップ将軍に対する敬愛の情は勿論だが、現在の党・政府指導者に対する批判・腹立たしさの裏返しであると語っていた。
最近の政治指導者による腐敗に対する国民の不満は無視しえないレベルにまで達しており、ベトナム人の国民性もあり、直ちに社会の不安定に繋がることはまず考えられないが、今回のザップ将軍の死去はベトナム人にとっての心の拠り所を喪失させたのみならず、はしなくも国民の不満の大きさを露呈させる機会となったとも言えよう。
また、偶々このタイミングに中国の李克強首相が訪越していたが、国民全体が喪に服している中、サイレンを鳴らしながらハノイを走る長い車列を見て中国に対する悪感情を増したベトナム人も少なくなかったと言われる。
中国との関係については、南シナ海の領有権をめぐり対立を続けてきたベトナムはフィリッピンとは異なり最近融和的な態度を示している。ここがまさにベトナム人のベトナム人たる所以である。「河原にはえる葦」と称されるベトナム人は大きな力を前に柔軟に身をしならせ、何とか風をやり過ごそうとする。共通の海上国境トンキン湾を抱えるベトナムとしては、漁業やその他の資源をめぐる日常の問題があり、常に中国の物理的脅威に晒されている。対立一辺倒という訳にもいかない。
しかし、一般国民の反中感情は増すばかり。先日もハノイでタクシーの運転手に中国をどう思うかと聞いたら「ベトナム人なら10人中9人が嫌いと言うだろう」とのこと。
東南アジアでの我が国の立場は決して悲観的になる必要はなく、ましてやあたふたとすべきではないというのが私の現場感覚。中国への複雑な感情は、東南アジアの国であれば程度の差はあれいずれもが有しており、中国が積極的外交を進めれば進めるほど、かかる感情は増幅する。我が国は粘り強く、心からの誠意に満ちた各分野での協力を推進していくことこそ王道とわきまえるべきであろう。
「繁栄と民主主義の弧」とか「繁栄と自由の弧」とかのスローガン外交は百害あって一利無し。言う者の軽さを表すのみ。アジアの国々が、そして人々が見ているのは、本当に彼らのことを考えてくれているか否かの一点である。
1975年、福田赳夫総理はアジア歴訪の折、マニラで我が国の対アジア外交の大原則は「心と心の関係」にあると述べられた。私は駆け出し外交官としてこの演説を目の前で聞いた。その後、ジャカルタ、北京、ハノイで長く勤務した経験から「心と心の関係」こそ我が国外交の原則であり力であるとの信念を持つに至った。「信・心なきところ旗立たず」。わが愛するザップ将軍の死去に際しての思いではあった。
(はっとり・のりお)











