共産主義知らぬ共産党員 北朝鮮亡命者の話を聞け
共産党名乗る老人と
千葉県柏市に3年ほど滞在したが、街の商店街で買い物をした後、休憩所で一息入れていたところ、向かいの椅子に座った年輩の帽子をかぶった男性が、笑顔で話し掛けてきた。
「僕は共産党ですよ」
私は驚いて彼の歳を聞いた。「81歳です」という。
「ちょっと、待ってください」と言って、私は座り直し、彼に向かい合って話し始めた。
土木工事が仕事だったというその老人は、共産主義が無神論であることなど、何も知らないのだ。
“神儒仏一粒丸”と幕末の聖人、二宮尊徳が教えたように、日本には各種宗派が入ってきた。先祖を敬い、子孫を大事に育てる、それが人間の務めであり、民族、国家の繁栄につながる。それを教え、育てるのが教育であり宗教なのだ。しかし戦後の日本は、それが希薄になった。拝金主義が強まり、教育が荒廃した。
教育が政治利用され、公教育が社・共両党の票田にされたのだ。戦後の異常な教育界の混乱は国旗・国歌、「道徳」に反対し、子供たちを学力低下や“いじめ”と暴力等の不幸に追い込んだ。
この責任は誰が取るのか、いまだに答えは出ていない。傷ついた子供たちは親たちを苦しめ、自立するのも難しい。その結果は、さらに社会的、国家の負担となるのだ。
街の一隅で、ふと漏らした老人の一言が私の足を止め、私は彼の求めに応じて話し続けた。老人は態度を改め、丁寧に言った。
「コーヒーを御馳走(ごちそう)しますから、もう少し話を聞かせて下さい」
私は承知して、近くの茶店に移り、さらに1時間ほどその老人に話をした。
共産主義がどのようなものか、短時間の説明で現実を理解できるのは、北朝鮮亡命者の話だ。私は3度、韓国を旅したが、最初は観光で釜山まで出掛け、後の2回は北朝鮮亡命者(女性、当時38歳)の命懸けの亡命体験談を聞くためだった。私は確認のため、ソウルで2度、彼女の話を聞いたが、それは想像以上に過酷なものだった。
戸籍もなく、父母兄弟も知らされず朝鮮労働党(共産党)でなければ米飯が食べられない。彼女は米飯が食べたいと強く願って努力を続け、高2の時に“反動”と言われた男性の銃殺刑を命じられ、必死の思いで男に銃を向けた。
倒れた男を切り刻んで背負わされ、その骨肉を、リンゴ畑の木の根を掘って肥料にして埋め、ようやく党員になり米飯を食べられた。やがて小学1年の担任教師となり、安心して務めるうち、掃除当番の男の子が、ハタキ掛けをして壁に掛けた金日成の額が床に落ちて、壊れた。途端に「おまえは反動だ」と言われ、拘束されて収容所へ送られた。そこでは、たちまち栄養失調で皮膚炎となったという。
命懸けで韓国に逃亡
さまざまなことがあった後、絶望感に襲われた日々のある日、弟と名乗る男が現れ、10日後に肺結核で解剖、殺されるから、家族がいるなら会ってこいと言われ、会いに来たのだと話したという。彼女は驚いて父母の所在を聞くと、父は“反動”と呼ばれて処刑され、母は栄養失調で視力を失い、穴蔵で暮らしているとのこと。直ちに母親を訪ねると、「早く弟と逃げなさい」と言われて女性は決心して、母に別れを告げて弟とイムジン河に入った。
しかし、弟は流され、彼女は岸に上がるや北朝鮮の兵隊の銃撃から逃げるまま崖を飛び降り、意識不明のまま崖下に倒れていたという。やがて韓国兵に助けられ、ソウルに辿(たど)り着いた彼女は、「崖で落ちて歯は入れ歯、片足は義足です」と笑った。
私の話を聞いた老人は「よく分かりました」と、礼を言って帰って行った。