沖縄はいつから日本なのか 仲村覚氏
~誰も気が付かないもう一つの日本共産革命理論~
復帰への先人の志を受け継ぐ
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム理事長 仲村 覚氏
一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム理事長の仲村覚氏は14日、世界日報の読者でつくる世日クラブ(代表=近藤譲良(ゆずる)・近藤プランニングス代表取締役)で、「沖縄はいつから日本なのか~誰も気が付かないもう一つの日本共産革命理論~」と題して講演した。仲村氏は戦後につくられた「沖縄はいつも日本人にいじめられる被害者」という歴史観が、沖縄の諸問題を生み出す革命理論になっていると警鐘を鳴らした。
(以下は講演要旨)
“被害者”という革命理論
国家解体意図した「自己決定権」
中国の工作により、沖縄の歴史は「差別されて基地負担を強いられている」「大東亜戦争で捨て石にされた」「明治維新の結果、琉球国が滅ぼされた」「薩摩藩が出兵して琉球を支配した」と教えられている。

なかむら・さとる 1964年、那覇市生まれ。1979年、陸上自衛隊少年工科学校(横須賀)入校後、航空部隊に配属。退官後、複数の企業勤務を経て、沖縄が中国の植民地になるという強い危機感から活動を開始。2017年、一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラムを設立、理事長として活躍中。著書に「沖縄はいつから日本なのか」(ハート出版)など。
沖縄の歴史を誰が一番勉強しているかというと、恐らく中国共産党だ。その次に沖縄の歴史をよく勉強しているのは左翼。左翼はマルクス理論を勉強し、それを魂に染み込ませて革命闘争をするが、一方においては「琉球人は差別されている。植民地のようでかわいそうだ」という革命理論を広めている。
5月15日の祖国復帰記念日を、左翼は平和行進の日にしている。実態は反米行進で、チラシには「歩くことで知る沖縄」とあり、沖縄県民ではなく全国に呼び掛けていることが分かる。
つまり、県民の総決起大会ではなく、左翼の全国大会を毎年5月に過去何十年もやっているということだ。
翁長知事が誕生してから「辺野古基金」というものができて、今では6億円以上集まっている。共同代表はアニメ映画監督の宮崎駿氏やジャーナリストの鳥越俊太郎氏などだ。
共催団体は1283団体あり、沖縄は17団体だけで、東京は109団体もある。沖縄の基地反対と言っているが、その司令部は東京だ。
東京から指示が出て、ヒトもモノもカネも流れている。沖縄でどういう人を看板に立てて、沖縄の人たちが先ほどの革命理論のシナリオに従って声を発するような仕組みを、長い時間をかけてつくり続けてきた。
集めたお金は沖縄での左翼活動に使われている。辺野古基金は間違いなく「革命闘争基金」。合法的に革命闘争のための資金を集めるシステムがつくられてしまった。
沖縄の左翼ばかりたたいても解決しない。東京の左翼からお金が流れる仕組みをどう止めるか、私たちは総力を挙げて考えなければいけない。それができなければ、沖縄の愛国者が活動できるように人やお金を流す仕組みをつくらないと負ける。
また、新たな革命工作用語として「沖縄の自己決定権」というものが、翁長氏の知事になるプロセスで出てきた。
「沖縄が『日本』になったのは、明治初期に沖縄県が設置されてからであり、その期間はわずか100年前後にすぎない」という歴史観が、学術界ではまかり通っている。沖縄の人たちのおじいちゃん世代より上は、日本人でなく琉球人だと言われて反論できないくらいに私たちはやられている。
琉球新報の特集「道標を求めて」の第93回(2015年2月4日)では、日本解体構想と言うべき主張がいくつか紹介された。
米イリノイ大学の平恒次教授は、新琉球国、新アイヌモシリ、在日でつくる新朝鮮国、そして残りの日本でつくる連邦国家こそが民主主義の原則に沿う日本の姿と主張している。
琉球大学の島袋純教授の「沖縄の自治拡大案」では、沖縄県の自治基本条例を作り、9条改定など沖縄が望まない憲法改定があった場合、独立して独自の憲法を制定し、日本と対等な主権国家の連合体をつくることを提言している。
実際の沖縄県民は自己決定権と言われてもよく分かっていない。地元紙のアンケートによると、自治権の拡大くらいにしか思っていないが、ふたを開けてみれば「独立」のことだ。
3年前には翁長知事が国連人権理事会でセルフ・デタミネーション(self-determination=民族自決権)という英単語を使い、沖縄の自己決定権がないがしろにされていると言った。
外国人から見れば、琉球国の酋長が来て「日本政府とアメリカ政府にいじめられている。独立したいけど弾圧されているので助けてください」と言いに来たようなもの。先住民族の権利を国連で得ることで、米軍基地を撤去する人権運動をしようとしている。
琉球人として米軍基地を撤去する権利、琉球語で学校教育を受ける権利などを獲得しながら、日本政府から一括交付金をもらう権利も手放さないというのが「沖縄の自己決定権」だ。これにアンテナを張り巡らし、阻止しなければいけない。
沖縄のマスコミは日本に復帰する前から左に偏向していた。日本復帰前の彼らの闘争は何だったかというと、沖縄返還協定を国会で批准するという時「沖縄返還協定粉砕!」と言っていた。沖縄の人は復帰を望んでいるのに、復帰反対の世論をつくっていた。
沖縄が復帰した昭和47年5月15日は、左翼にとって日米両政府に米軍基地を押し付けられた屈辱の日。今も沖縄県民が毎年5月15日にお祝いをする気にならないよう、一生懸命に平和行進をしている。
沖縄の祖国復帰運動を裏で扇動、コントロールしていたのは中国共産党だ。1964年1月26日の中国共産党新聞で毛沢東が「米軍武装部隊の撤退の要求、日本の領土沖縄の返還要求」をする日本の大衆運動を支援すると言っている。また、1965年の中日青年友好大交歓会の記念切手には、中国の切手なのに日本語で「沖縄をかえせ!」と書かれていた。
当時の自民党の平均的な世論は「沖縄の復帰は時期尚早」。沖縄の復帰で、冷戦中に米軍がいなくなったらどうするという時代だった。
躊躇(ちゅうちょ)している間に共産党などが沖縄にやって来て復帰運動を推進した。
毛沢東の沖縄県祖国復帰扇動は、祖国復帰が目的ではなく、日米安保を破棄させ、日本全体を共産化することにあった。
さらに沖縄返還協定を批准したのと同日、非核三原則を国会決議した。日本は非核三原則で核武装を考えることもできない思考停止状態に追い込まれた。これが沖縄返還闘争の戦果であり、核アレルギーも沖縄を利用してつくられた。
ここで疑問となるのは、沖縄県民は独立を望んでいないのに琉球独立論がなぜあるのかということ。
実は中華民国の蒋介石が終戦直後の1950年、沖縄で琉球独立工作を仕掛けていた。沖縄が赤化しても日本に復帰しても困るからだ。大陸反攻拠点として、米軍のいる琉球は重要拠点だった。親米・反共・独立という軸で琉球国民党をつくったが、誰一人当選できず失敗した。
その後、毛沢東の沖縄復帰工作の方が沖縄県民の心をつかんだが、佐藤総理大臣が米軍基地を残したまま返還協定に調印すると分かった瞬間に日の丸を降ろして、今度は即時無条件全面返還というスローガンを掲げ、安保闘争として舵(かじ)を切った。その頃に琉球処分という言葉を使うなど、沖縄の歴史ががらっと反日に曲げられた。
沖縄の日本復帰のため、多くの愛国者が半生を捧げて活動した。どのような思いで復帰運動をしたのかというその志を伝えていけば、沖縄の自己決定権という馬鹿な話は間違っても出てこなかった。
先人の志を引き継ぐことが、今後の日本再建に必要だ。