慶良間の集団自決から73年、「軍命」は援護法のための後付け

沖縄戦聞き取り調査第一人者 作家・星 雅彦氏に聞く

 第2次世界大戦末期の沖縄戦で米軍の沖縄本島上陸前に激戦となった慶良間諸島で、1945年3月25日には座間味島、28日には渡嘉敷島で住民が集団自決をした。戦後、何度も現地入りし、住民から度重なる聞き取り調査をし、集団自決に関する数々の論文を発表している沖縄在住の作家・星雅彦氏に集団自決の真相と要因を中心に聞いた。(聞き手・豊田 剛)

住民に込められた村落共同体の意識

「軍命」は援護法のための後付け

沖縄戦聞き取り調査第一人者 作家・星 雅彦氏

 ――沖縄戦の集団自決はどのように定義付けられるのか。

 沖縄戦において激戦地の壕内などで将校の自決や野戦病院での重症病兵などの自決処分のほか、一般住民がパニック状態に追い込まれてさまざまな方法で自決することを「集団自決」と呼んでいる。

 ――記録に残されている主な集団自決は。

 米軍は1945年4月1日、沖縄本島中部の読谷・嘉手納・北谷の西海岸から上陸して、大半は南部に向かって攻めると、中部激戦区の嘉数高地(宜野湾市)、前田高地(浦添市)、那覇のシュガーローフを陥落させた。それで沖縄住民は中南部で多大な死傷者を出し、各地で2、3世帯が絶望を共有して集団自決を選択した。

 その中で注目されるのが読谷村のチビチリガマと、北部の本部半島北西の海上に位置する伊江島のアハシャガマの集団自決である。

 伊江島では4月2日、米軍に追われてガマに逃げ込んだ防衛隊が見境もなく手榴弾と爆雷を爆発させて約120人の住民が犠牲になった。読谷のガマは日本軍不在で、元中国従軍兵と従軍看護婦が主導者の役割を果たしたともいわれているが、避難民140人のうち、自決した者は15歳以下47人を含め90人だった。このことから、自決を誘導する者によって大勢が連鎖反応を起こすことが判明。死を招く思いの底には、自らを説得するような心の動きがあったと推測される。

 こうした心の内部に謎を含む最も典型的な集団自決例は、慶良間諸島の座間味島と渡嘉敷島だろう。

 ――座間味島で直接、聞き取り調査をした内容は。

 座間味島は3月25日、座間味村長はじめ役場の幹部と家族が農業組合の壕でそろって集団自決し、村民も各自の壕で自決していた。その死者は385人とのことだった。私の調べでは軍命は出ていない。

 隊長命令があったかのような発言をしてきた宮城初枝氏は「軍命があったとすれば、受けた犠牲者は準軍属となって援護金が支給されるようにするという説得があった」とし、後に座間味守備隊長の梅澤裕氏に詫びを入れている。そして、援護金受給者は集団自決の犠牲者に限られるわけだが、この件についてはなぜか皆、口が堅い。

 ――渡嘉敷島には戦後、渡嘉敷守備隊の赤松嘉次隊長に同行する形で訪問するなど、かなり精力的に調査しているが。

 392人の死者を出した渡嘉敷島の集団自決も手榴弾の不発が多く、自決用の道具には小刀、カミソリ、鋤(すき)、鍬(くわ)、棍棒(こんぼう)、縄、猫いらず等を使用している。雨の降りしきる山道を歩いて玉砕場の河原まで行く道程の中でも、それらの道具を大事に持参した。当事者にそれを訊くと、決まって黙り込む。あらかじめ家を出る時、死を覚悟していたように思える。

 そこに凄惨(せいさん)さを秘めているが、直截(ちょくさい)な晴れやかさを感じさせると言えないだろうか。現場で生き残ったある婦人が死者たちを見て、「本当に羨ましいと思いましたよ」という発言を聞いて何か意味深く不思議な気がした。

 ――聞き取り調査などで分かったことは。

 軍命について、渡嘉敷出身で元校長の松本好郎氏(故人)は十数年前、この問題について「悪魔の証明みたいだが、軍命はあったと思う」と考え深げに言っていたが「赤松嘉次隊長から直接聞いたわけではない」と前置きしている。また、3年前に亡くなった兼城清新氏(当時95歳)は「赤松隊長は自決せよ、とは絶対言ってませんよ。彼は潔癖な人だったから、手榴弾も防衛隊以外の人には渡してはならないと言っていました」と。

 それからもう一人、渡嘉敷出身の86歳になる小嶺幸吉氏は、久しぶりに軍命の話を出したら、「隊長命令の問題は(沖縄キリスト教短大元学長の)金城重明氏のウソの証言がすべてを左右したと言える。都合の悪いことは、たいてい上からの指令だと言う。そういう時代の空気は、現在も尾を引いているようですね」と意味深な台詞をもらしていた。

 1945年7月のサイパン玉砕の情報も心理的に沖縄の人に影響したかもしれない。また、軍国主義の戦陣訓で「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」の教訓を受けた指導者たちからの感化もあったかもしれない。逼迫(ひっぱく)した危険な状況下での恐怖と絶望のパニック状況からの衝動的発生だったかもしれない。ただ、軍命を受け入れての集団自決(玉砕)を戦闘協力として認定されての援護法の適用は、後から仕掛けたものであって、当事者の考慮だったとは誰も思いめぐらすようなことはしないであろう。

 はっきり言えることは、一途な親の愛から「一緒に死のう」という母親の声をまた聞きしたことがあったが、そういう言葉には村落共同体の意識が込められていたように思うのだ。


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星 雅彦(ほし・まさひこ)

 1932年、那覇市生まれ。詩人、美術評論家。国立劇場おきなわ財団法人理事、沖縄県文化協会会長、文芸誌「うらそえ文芸」編集長などを歴任した。